移民と置き換わり、消滅しゆく日本人への「逆説の少子化対策」

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「日本は『日本人から移民主体」の国へ」食い止めるための結果第一の少子化対策の具体案

 

 

◎日本人は毎年数十万人単位で急減の一方で、移民(外国人住民)は毎年増加(コロナ渦で数年はずれるが)を続ける

→日本人と移民の人口比逆転は時間の問題「40年後の40才以下の3人に1人は移民?

出生率に変化がなければ、将来の人口動態もほぼ推計通りになる) 


◎約90年で人口が半減するスピード(しかも子供が少なく老人が多い)。人種単位の持続性の観点では有事であり、危機的非常事態。それなのに対策は後手後手

→例えば、ウイルスの蔓延は現在進行形で悪化のスピードが早く、人権を制限してでも効果的で思い切った対策をとる機運も生まれやすいが、少子高齢化ダメージの時間的スピードが遅いために、切迫感が低く、結果、対策が「常に」後手に回る。

 

◎現状の育児支援中心で自由意志に期待した少子化対策は30年以上、毎年失敗の連続。政府自治体の対策の対象世帯である「産みたくても産めない人。結婚したくてもできない人」はどれだけ存在するのか。被害者感情に流される対策は効果が出ていないのが現実。

本当はお金ではなく、大変だから子作りをしたくない。面倒だから結婚したくないだから育児支援保育所をいくら作っても、育休を増やしても結婚に結びつかず、子供は増えない。(平均年収の倍で待機児童のない東京都千代田区出生率は全国平均以下)

 

出生率低下の要因は未婚率の上昇と多産の減少。その原因とされる「格差拡大説」はどこまで正しいのか。

独身に低所得者が多いのは「原因ではなく、結果」。1970年代までは、低所得者(年収200万円以下)でもほぼ結婚して子供がいたが、現在は戦時中よりもはるかに低い出生率。日本を含む先進国は生活が多様化しており、コスト要因の結婚の必要性と優先順位の低下により、低所得者から結婚を回避するようになった。

 

◎子作りしたい人への環境支援より、子作り「したいと思っていない人」に子作りを促す対策が重要

→既婚者の完結出生児数は約2人であり、現実として子作りをしたい人は支援に関係なく、子供を作っている。問題は出生率低下の要因である未婚者の急増であり、結婚を諦めている人、意欲に乏しい人にどう働きかけるかがカギ。結婚は個人の自由だが、その自由により、社会の持続性を大きく損ねている。

 

◎動機に働きかけ効果だけ求めた少子化対策は次の通り。「3大義務同様に子作りの努力義務化の指針」「第3子以降に1000万円超など、多産ボーナス」「子作り負担のなく福祉を受ける40才以上の独身は増税(実質的独身税)」

→早婚に金銭的メリットが生じて、相手の理想ハードルが下がり、これまで結婚できなかった層も結婚相手の対象に。育児放棄など社会問題の増加より、少子化放置で起こる社会問題の方がはるかに深刻。消費性向の高い育児世帯と若年人口が増えれば内需が復活。

 

少子化対策の失敗は、効果でなく倫理的視点(受け入れられやすい育児支援のみ)で選ぶから失敗する。本来、負担の大きい子作りに対し、反発のない対策は効果も期待できないはず(作用反作用の法則)。先祖の多大な負担があったからこそ、現代人が存在する。現代人が身勝手な倫理やモラルで負担回避を正当化すれば、将来世代は先細りの一方。

→目的(少子化解消)は手段(人権に問題があるが効果を見込める対策)はを正当化するのか。メリットがデメリットを上回れば導入すべき(人が減り続ける悲惨な社会になっても、子供を作らない自由意思尊重が大事なのか? 倫理観や同義性の遵守より、手段が受け入れ難くても「問題解決を優先」すべき) 

 

★本稿のポイント

 

少子化対策の「思い込み=(人権やモラルは少子化解消よりも重要)」を解消し、少子化対策にのみ人権やモラルを我慢すれば、効果的な対策を実行でき、少子化問題は解決可能。昔の子沢山を成立させていた周囲のプレッシャーや後継、労働の担い手などの子供が生まれる要素が無くなった現在、「法律一本の施行」で制度を作り、子作りに動機を与えて出生率の上昇に繋がる具体策を提案する。それを実行するには、いかにしてハードルとなる人権や倫理観を我慢してもらうのかの説得が少子化対策の本質にして、本稿の最大のテーマだ。少子化が解消し子供が増えれば、内需が復活し日本経済も回復する。本書では、このままの少子化状況が続いた場合の日本人に訪れる悲惨な運命とそれを回避するための、効果を優先した対策を提案、解説する。

 

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近代社会学の祖オーギュスト・コントは「国の未来は人口構成で決まる」と見抜いたそうな。人口を減らしながら常に高齢者が多い逆ピラミッド状の人口構成では、衰退は避けられません。合計特殊出生率1.36(2019年)と低迷を続ける日本。このまま人口が減り続ければ、国の発展以前に現日本人が将来的に存続できなくなります。存続できない可能性が高いのではなく、日本人の出生率が2を切り続ければ将来的に存続できなくなるのは物理現象です。それに対し、どこか他人事の日本社会と政治に問題意識を投げかけたいと思います。

 

問題は解決するより、発見する方が困難です。個人も組織も、自ら気づかない潜在的な問題により、傾いていきます。少子化問題は極めて深刻な問題にも関わらず、政府の少子化対策関連予算は先進国の中でも総予算に占める割合が低く、口では声高に危機感を高めていると言っても、財政支出の観点からは本気度が極めて低く、問題視していないレベルと明確に言えるでしょう。2019年末に決まった26兆円(真水4.3兆円)の経済対策でも少子化関連には1円も使っていません。使い先は電線の地中化など。。

 

現状の少子化対策育児支援など環境整備の観点しかなく、30年間も同じような方向性の政策しかとられておらず、改善の兆しが全くないのに、「地道にやるしかない。環境整備が大事だ」と言い続けています。一方、日本人が減り続ける中で、近年の政府は実質的な移民政策に大きく舵を切りました。100年後の日本列島は日本人と移民の混在する国になっています。さらに、それ以降も出生率が大幅に回復しない限り、容赦無く日本人は減り続ける一方で移民の割合は増え続け、その時の日本国籍のルーツは海外由来になっている可能性が物理的に極めて高くなります。公用語が中国語などに変わっている可能性も十分あるでしょう。

 

そうはならない為の少子化対策。現状の育児環境改善策以外にも、視点を変えれば効果のある対策はあるはずです。出産育児は個人の権利に関わる問題ですが、残念ながら環境支援だけで結婚、子作りの有無を自由意志に委ねた現在の少子化対策では増えていない現実があります。それを改善するためには、より、子作りの動機付けに導く政策が必要であると考えます。しかしそういった対策は、個人の自由意志に反する可能性のある対策であり、モラルや倫理観の問題で実行に大きな障壁があります。しかし、動機付けの対策に有効性があって少子化が改善される可能性があっても、現代人のモラルや人権を優先すべきなのでしょうか。その優先順位がどうあるべきか、問題提起したいと思います。


少なくとも現状の育児支援中心の対策より、効果が見込めそうな対策を、モラルや現代人の自由や権利を理由に放棄してもいいのか。現代人のモラルや価値観はその人種の存続や持続性以上に重要な価値観なのかーー。

 

このように、少子化対策の具体策だけでなく、タブー視される少子化対策問題に対し、「どう向き合って、どう考えるべきか」。そういった観点を問いただすような内容になります。現在出尽くしている対策や論点とは違った観点と具体的な対策を提案し、実効性のある少子高齢化対策に繋げたいと思います。

 

【要点・トピック】

 

  • 現状の少子高齢化が改善しないまま、実質的移民の外国人労働者を受け入れ続けると、いずれ日本人と移民が「人口比で逆転」する事になる。日本人の為の日本ではなくなり、多民族国家に変わる。日本人と外国由来の国民・住民の人口構成逆転に繋がる現象はすでに進行しており、人口構成比の逆転は時間の問題。不可逆になる前に手を打つべき。

 

  • 政府、自治体の育児環境支援ばかりの少子化対策は結果が出ておらず、失敗との結論付けが必要。国民の自主性に任せれば、少子化は進行する一方。少子化の構成要素である未婚率の高まりは少子化現象の原因ではなく結果。日本を含む先進国が直面する少子化の原因は文明化による価値観の多様化で、結婚と子作りの優先順位が下がった事による晩婚化、非婚化が進んだ影響。現状の育児支援中心の対策の方針を「大幅に変えないと」今後もさらに日本人は減り続ける。子作りの動機付けをアメとムチの両面でやるくらいでないと解決は難しい。効果的な対策を打てば「翌年から」出生率は著しく反応する事が過去の事例からも分かっている。子供が増えだし、出生率が2を越えれば、日本の将来は明るい。

 

  • モラルや倫理観、自由意志を優先して、負担感のある少子化対策をせず、現状の効果が上がってない対策をなおもやり続け、その結果このまま滅びるか、逆にモラルや人権をある程度我慢して、有効性のある対策を実行し、安定した持続性のある社会にするかーー。

 

ーー第一部//「現日本人が少数派になる日」ーー

 第一章・日本人が少数派になる日

◆このまま人口が減り続けると、どうなるのか

 

政権に関係なく、労働や消費の担い手不足という現実問題に対応するため、政府や経済団体は、外国人労働者という形態で、実質的な移民(国連の定義では1年以上住む外国人)の受け入れをさらに推し進めるようになるだろう。実際、2018年の「骨太の方針」でも外国人労働者受け入れ拡大の方針が決まり、2019年4月には改正入管法が施行された。彼ら外国人が高齢者になった時、どうなるか。もちろん追い返す事はできず、いずれは外国人移民の高齢化問題も出てくる。

 

このまま、日本人の人口減少分を外国人で補おうとすると、コロナ渦で数年はずれ込むだろうが、基本的には時間の進行とともに、日本人と外国人の比率が相反し、やがて逆転することになる。この点ははるか先の未来の事として、ほぼほぼ論じられていない。このままでいいのだろうか。すでに東京都内ではかつて外国人が多かった街は新大久保と観光地くらいだったが、今や主要繁華街で昼夜問わず、その割合は静かに増え続けている感がある。

 

出生率の数字は「人口が減っていくかもしれない」危険指数ではなく、数値が2.0を下回る状況が続けば「いつまでに人口がゼロになるか」の確定年数を導ける指数。内戦中のシリア、アフガンや北朝鮮より先行きが危ない少子化日本。

 

出生率を人に問うても、いまひとつ危機感が薄い。出生率低下と言っても、「人口がゼロになる事は無いだろう」「単なる警告信号のような数字だ」と、漠然と認識する人は多い。しかし、出生率の1.41という数値は男女2人の親から約30年後の次の出産サイクル時の出生数は1.41人しか生まれてこない計算だ。これを分かりやすく1人に置き換えると約0.7人になる。1年間の出生数が87万人(2019年出生数)だとすると、この世代が、第一子を生む頃の30年後は87万×0.7の約60万人、その30年後は約42万人。その30年後は約30万人とどんどん減り続ける。そんなバカなと思うかもしれないが、実際、第二次ベビーブームの1973年は209万人の出生数で、彼らが出産適齢期になった30年後の2003年あたりは不景気の影響もあって、出生率が1.26程度まで減っており、その結果、113万人と親世代の半分程度の出生数に落ち込んでしまった。団塊ジュニア世代は就職氷河期世代で不況と重なる運の悪さがあったが、現実的に、出生率が2を切ると、容赦なくその数値の割合だけ、出生数は減り、人口が減り続けるのである。

 

この危機感の無さには、「出生率」と言う単語にも問題があるのではないか。2018年に国会を通過した「働き方改革」も「残業代カット改革」なら法案は通らなかっただろう。それほど名前は大事だ。言葉は悪いが「人口半減期」のような数字で、出生率を人口が「半減する期間」で示した方が分かりやすいのではないか。例えば、今の出生率が続くと人口の半減期はおよそ80~90年だ。つまり、2100年ころには日本の総人口は6000万人に半減している計算だ。今の出生率が続いた場合に、半減するまでの期間を書いた方が、危機感は伝わり易いだろう。

 

内戦のシリアやアフガン、独裁政権下の北朝鮮ではいずれも出生率が2を上回る。いくら、内戦や政治不安で経済状態が悪くても、それにより大規模な内戦に発展しない限り年間1万人も死亡する事はない。しかし、日本では団塊世代が平均寿命を迎える2030年頃は年間170万人程度の人口減を経験することになる。そして、今後70年かけて日本の総人口が6000万人に減少すると予測されている。結果的に早く滅びる国がいい国と言えるのだろうか。

 

◆現日本人が外国人(実質的移民)に徐々に置き換わり、日本人はやがて少数派に転落して、いずれゼロになる・・・100年後に純粋な日本人は消滅へ。アメリカではすでに16歳未満で白人が過半数割れ

 

「移民が来ても、混血化するから日本人の血は残るはず」というのは大きな誤解である。出生率が2を割っていれば、人口減少は続き、その減少を補うために、時間の進行とともに、外国人移民が入り続け、日本人の血はゼロになるまで混血化しながら希釈化され続けていく。

 

2020年6月には国勢調査局の統計を基にAP通信がまとめた情勢によれば、アメリカではすでに16歳未満で白人人口が初めて半分を割ったという。流入が急増するヒスパニックや黒人、アジア系に対し、白人人口が増えなかったためだ。アメリカでは1990年に75%だった白人の割合は2020年現在は60%に急減。たった30年で約20%も人種割合が低下したことになる。さらに2045年までに白人人口が半分を割るという推計がある。白人の出生率が2を切り続けて増えず、白人人口がゼロに向かい減っていく一方で、ヒスパニックとアジア系の流入がその穴を埋めているためである。アメリカの出生率は2を上回っているが、それはヒスパニックを中心に移民の出生率が高いためである。現在、アメリカは多民族国家だが、そのうち白人が減り、やがて黒人とヒスパニックだけの国になり、逆に多様性は少なくなっていく可能性が高い。

日本は今の出生率(1.41)のままなら、90年周期で人口が半減していく計算だが、補完するように移民が増えていけば、混血が進み、日本人が計算上、ゼロになるよりもっと早く、今の純粋な日本民族はいなくなる可能性が高い。アメリカも元々、ヨーロッパ移民が作った国で建国当初はそれぞれの出身国同士の人間が一つの地域に固まって住んでいたが、代を重ねる事に混血が進み、3世代もたてば、ほぼ混血しかいないと考えられる。例えばいまだに純粋なイタリア人だけをルーツに持つアメリカ移民3世はほぼいないのだ。日本はアメリカとは事情が違い、コロナ渦で数年は鈍りそうだが、いずれ移民の割合が増えれば、混血化が進むと見られる。

 

そんなアメリカももはや白人のみに対する少子化対策など、トランプ大統領といえど、その他の国民が許さないため到底無理だろう。日本であれば、まだギリギリ可能な段階だ。総務省統計局の推計『人口の推移と将来人口』では、2095年には6400万人。この頃は人口の実に38.3%が65才以上の高齢者なので、若い外国人労働者を入れないと社会インフラの維持が難しくなる。さらにこの頃になると、15年毎で約10%弱ずつ総人口が減っていく。2017年の総人口は前年から30万人減だった(外国人が17万人増なので、日本人だけでは47万人減)が、この頃(2095年)では、毎年90万人前後ずつ減っていく。しかも今の約半分の総人口の段階で、だ。

 

◆移民で失敗し、排除に向かう欧米。一方で日本は国民の同意なしに不可逆的に「多民族国家」化しつつあり、今や世界4位の移民大国

 

すでに、外国人留学生が多く、日本の総人口の1割以上を占める東京都では、住民登録がされている新成人の8人に1人が外国人だ。特に外国人が多い新宿区では2人に1人が外国人、現時点でも逆転は時間の問題だ。新宿区同様、日本語学校が林立する東京都荒川区は平成29年11月の外国人世帯増加数は293、一方、日本人世帯の増加数は73と、実に4倍以上の増加数である。外国人が比較的少なそうなイメージのある世田谷区も平成27年で外国人住民の増加は15000人だったのが、平成31年には21000人。たった4年で35%強の増加率である。また、同区内の産後入院施設では3割、外国人のところもあるという。これが現実なのだ。

 

外国人の労働者数の推移でも、厚労省の『「外国人雇用状況」の届出状況まとめ』によると、2008年にはまだ48万人だったのが、2017年には127万人で、わずか10年間で2.5倍の増加だ。ホワイトカラーは関係ないと思いきや、そんな事はない。ホワイトカラーの主な在留資格である「専門的・技術的分野の在留資格」では08年に8万4000人だったのが、17年には23万8000人と、約3倍弱の伸び率である。

 

以前、民主党が導入を目論んだ外国人参政権はけしからん、とか「日本は日本人だけのものではない」の鳩山発言が批判の対象になったが、すでに現自民党政権下では法案化によりそれが現実化している。地方自治では既に帰化した元インド人(妻は中国出身)が先の統一地方選で東京都の江戸川区議に当選している。インバウンドを含め、コロナ渦前までは新宿、池袋、大阪ミナミなどの繁華街の一部ではすでに、日本人より、外国人を見かける方が多い地域も増えてきた。OECD諸国で外国人の年間受け入れはドイツ、米国、英国につぎ、すでに4位になっている。これは良い悪い話ではなく、すでに、状況として、完全に日本は日本人だけのものではなくなっているのだ。。もちろん、こういった現象は今後の人口動態の予測から考えると、まだまだ序の口である。

 

◆日本列島においての人口構成が「日本人から移民」に徐々に入れ替わっていく。40年後の40才以下は3人に1人が移民?老人と移民の国に変わり、衰退し続けるニッポン


人口問題研究所の推計では2060年の日本人は8600万人ほどと推計されているが、仮に、外国人在留者(移民)が年間25万人(2018年は17万人の外国人の純増、年25万人の純増を指摘する識者もいる)の増加となった場合、現在の250万人に加え、40年✖︎25万人で1250万人。1/8は外国人になる計算だ。しかも、日本人の65才以上の高齢化率がその時は40%程度で働く若者が4400万人程度しかいない。少なく見積もって、移民の労働者人口が1000万人としても、5人に1人は外国人、40才以下になれば3人に1人が移民となっている可能性もある。

2150年頃にはあやふやな推計ではあるが、総人口3000万人前後になっており、不足分を移民で補って現在の水準である約1億2000万人を維持するとなると(実際には厳しいが)、現日本人は実に4人に1人となり、少数派に転落する事になる。下記の表はあくまで減った分だけ、補い続ければという前提だが今の日本人にとってはシビアな未来が待ち構えている。

 

近年の動向では2018年は17万人の外国人の純増。2019年以降は入館法改正などで、さらに純増数は増えていき、特定技能2号は家族帯同も可能となり、2号への移行は資格者が増える数年後以降はさらに増える見込みで、年間25万人増を見込む識者もいる。ただ、実際は各国で外国人労働者を奪い合うため、一方的に増え続けない可能性もあるが、出生率が改善しない限り、いずれかの時点で日本人と移民・外国人労働者の数が逆転することになるのは物理的現象だ。

 

◆2170年、天皇制も廃止され、ついに中華系が日本の初代大統領に!?

 

現在、外国人登録者のうち3割強が中国人でトップだ。しかもまだ中国国内でパスポートを所持している人口は現在5%しかいないという。これが日本並みの23%になれば、さらに割合が増えるのは言うまでもない。中国も少子化で、この割合は今後どうなるか分からないが、少なくとも、今の状況が続いた場合、現日本人が人口構成比で2170年頃には2500万人ほどとなり、不足分を移民で補い続けていれば、中国系は(12000万人−2500万人(日本人分))✖️30%で2850万人と逆転する。この結果、中国系国民が最大多数派になり、中国系が政権を握るチャンスが出てくる。ついに、中国が構想している「第二列島線」が具現化するのである。標準語も中国語になり、文化大革命とまではいかないが、観光客が見込める神社仏閣以外、日本の日本らしさはほとんど消えてしまうかもしれない。

 

第二章・なぜ、少子化対策は遅れているのか

◆抜本的な少子化対策が「待った無し」の理由。わずか20年後の生産人口の9人に1人は外国人。今、対策をしないと「手遅れ」に。じわじわ来る危機には危機感を感じられない「正常性バイアス」が対策を遅らせる

 

2020年現在、生産人口は約7500万人だが、わずか約20年後の2040年には5700万人前後と推計される。実にこの20年で1800万人の減少になる。これを年間25万人増の移民で補っていくととどうなるのか。現在、外国人は250万人。1年間増える外国人が25万人(2019年)×20年で750万人が外国人となる。すでに20年後は9人に1人が、外国人労働者(移民)となる。これ以降になると、おそらく移民世論の高まりで、参政権も発生している可能性があり、日本人による少子化対策は手遅れになる可能性が高い。人は時間をかけて悪化していく危機には対応しにくい心理がある。正常性バイアスとも呼ばれ、不都合な事象を過小評価してしまうのだ。合理的判断で変化に対応しないのではなく、長期での変化は合理的判断がしにくくなるのだ。

 

すでに、街角の看板等は英語に加え、漢語やハングルが併記されるようになって久しい。職場も徐々に外国人の比率が高まり、日本的な常識が通じにくくなる社会も遠い将来ではないだろう。地域の祭りや風習、伝統行事の担い手も減り、日本独自の文化や日本らしさは衰退の一途になるだろう。「日本スゴイ」の番組を見て溜飲を下げられるのも今のうちで、そうした番組も人口構成の変化から減少していく。もちろん、人口減による、社会保障や経済の衰退も避けて通れないのは言うまでもない。

 

また、移民外国人も優秀な人間が来日すればいいが、日本は欧米と比べ低賃金で待遇が悪く、すでに外国人労働者の中でも人気の働き先ではなくなっているという。今後は中国がさらに経済発展し、優秀な人材獲得には苦労するだろう。外国人が高い技能で日本を下支えしてくれるわけではなく、単純労働者市場で日本人との職の奪い合いになる可能性が高い。

◆子作りの自由を掲げながら、外国人労働者に頼ると言う「大きな矛盾」

現在、政府自民党が、推し進める外国人労働者の母国は中国を筆頭にベトナムなどのアジアや南米などが多い。中国は今でこそ、出生率2を大きく切り1.6弱と少子化になっているが、日本に労働者や留学生としてやってくる来日外国人は、まだ出生率が2を超えていた時代の子供である。今の企業や政府は彼らを労働力や税収、消費の担い手として必要としているが、彼らも母国では、子作りが当然視されていたと見られる時代の親に育てられた子である。

現在の日本が子作りは個人の価値観であり自由だと言っていながら、結局は子作りが当然視されていた時代に生まれた他国の子にすがって利用して、横取りしているのである。しかも、今は1人っ子政策を撤廃した中国やベトナム少子化である。特にベトナムは中国ほど人口は多くないが、勤勉だとして、世界中の先進国から労働者として需要があり、草刈場のようになっている。現在、1.95程度のベトナムは2人っ子政策があるが、すでにホーチミン市では出生率が1.45(15年)に低下したという。間違いなく今後は少子化が進むであろうし、そんな状態で若年層に外国に行かれたのではたまったものではないだろう。ちなみにアジアの出生率はタイではすでに国全体で1.5に低下しており、台湾(1.12)や韓国(0.92)は日本以下と、悲惨だ。

 

◆それでも無責任な「政府と国民」

 

出生率が2を割った状態が40年以上続き、全く改善が見通せないのに、依然として育児支援など、批判が来ない間接的で回りくどい対策しかしていない。抜本対策ではない、外国人労働者を都合良く使おうとする政策とAIやロボットが解決してくれる筈というなんら実現できるまでの期間の根拠もない、タラレバの希望的観測だけの社会的対策しかしていないのだ。この発想は子孫の社会がどうなろうと、自分たちの世代が生きている間だけ、なんとかなればいいという発想である。先人がやってきた子育ての努力や米百俵の精神などまるでなく、政府や企業は「貴重な出産適齢期の女性も、労働と消費と納税の担い手であればいい」。そう考えているのが本音ではないだろうか。

 

◆日本人の「消滅」に至る少子化現象を既成事実として、ほぼ無抵抗に受け入れる国民

 

少子化対策をしない、外国人労働者受け入れ拡大は、自らの民族を明確に、存亡の危機に立たせてしまっている。このような重大事に、「少子化だから仕方がない」と、国会議員や国民はいまだに他人事のように、ほとんど関心がない。関心があるのは有名人の不倫や増税、政治スキャンダルの話題ばかりで、構造的な問題には見向きもせず、問題だとも感じていない感すらある。少子化を問題視するのも、関連ニュースが出た時だけで「誰も危機感を感じていないことこそ問題」なのである。個人や企業がダメになるのも必ず、このパターンである。問題を問題と感じれば、誰しもその解決策を探るが、問題を問題とも感じていなければ、解決されようもない。こういう状況こそ、問題なのである。

 

本来は移民に頼らず、恒常的な少子化対策によって出生数を回復させるのが王道である。少子化対策をはじめ、結果(納税ができる20才になるまでの)が出るまでの僅か20年、辛抱できるかどうかである。すでに出生率が深刻化していた1990年代や2000年代から対策を始めていれば今頃はすでに成人を迎えており、労働と消費の担い手になっていたはずだ。

 

◆移民の受け入れで「得」をする政府と企業、「損」をする国民。

 

国民から見れば、労働力が少なくなると、一般企業だけでなく、医療や介護など、高齢者向けの福祉は確かに担い手不足が生じる。しかし、一般の経済活動では、人口規模に応じた経済に縮小していくことになるだけで一人当たりのGDPは変わらない。むしろ、人手不足のため、一人当たりの賃金は上昇するはずである。人口減により、損をするのは、売り上げと利益が減る事になる企業経営者と税収が減って困る政府であって、9割以上の国民には人口減はサービスの縮小(と言っても、欧州各国以上の人口はある)を受けいれれば、あまり関係のない話である。

 

そして、外国人を受け入れれば、その外国人の高齢者問題や社会負担のコストなどが増大し、それは移民の恩恵を受ける企業や政府ではなく、国民がそのコストを追う事になる。不景気になり、すでに家族も持つ外国人労働者が増えれば、国に帰れと言えるのだろうか。その生活保護費は日本人が担う事になる。すでに、医療費でも、最近移住してきたような外国人の親が日本の公的負担である保険診療の高額医療にかかるケースも増え始めている。

 

◆永田町議員会館に日参する外国人労働者派遣業界と教育機関。「規制=利権」緩和すれば対象分野が利権となる構図

 

外国人労働者を必要としているのは政府と企業経営者である。欧米では自国民と移民が衝突し、治安は悪化、職の奪い合いや差別で絶えず対立している。しかし、低賃金の移民の恩恵にあずかる企業経営者は移民導入による社会的コストを国民に押し付ける事ができ、負担は負わずにすむ。つまり、欧米でも国民にとっては、移民制度は職や福祉の奪い合いなどで不満がうずくまっているが、政府や企業経営者にとってはとても魅力的な制度で、少なくとも企業や政府から見た場合は「うまくいっている」のである。2019年には、厚生労働政務官外国人労働者在留資格の認定口利きを巡り、人材派遣会社に1人あたり2万円の金銭要求が報道された。本題からは逸れるが、政治家は議員に当選直後は真っ当に国益を追求する気概があったとしても、日々、担当分野の業界から「先生」と持ち上げられ親密な関係を求められれば、それに応じてしまう。これが人情だろう。

 

国内だけで事が済んでいればまだいいが、国益に関することまで口利きがひどくなると事態は深刻だ。「人手不足だから仕方がない。日本も国際化だ」と自分に言い聞かせればどんなに国益に反する事でも正当化できてしまう危うさがある。選挙でより優れた人間を選んでいるつもりなのに、不正や国民に対する利益相反が無くならないのは、属人的な問題ではなく構造的な問題である。

 

「議員も官僚も業界団体も国民だから国民への利益相反はしない」という理屈は全くの誤りだ。人間は「仕事人として」、「市民国民として」の両面があるが、ほとんどの人が重視するのは仕事人としての自分だ。明日の糧となる賃金や報酬をもたらす仕事を、国民としての面より重要視するのは当たり前。政治家だけでなく公務員でも、政府や組織の不正を義憤に駆られて告発するのは極めて稀だ。逆に言えば告発案件を知りながら告発していない人間の方が大多数であることになり、公務員も「国民として」より、「仕事人として」の都合を優先している現実がある。

 

◆外国人移民と差別や価値観の違いによるトラブル。無理やり混在環境を作る事ありきで後手の対策をするのではなく、無用なトラブルを産む状況を作らない事が重要。

 

 人種の違いで差別や拒絶的な感情が起こるのはもちろん人間にとって良くない極めてネガティブな感情である。しかしそもそもなぜ、人間には差別意識を持つのか。そもそも差別意識は一種の生理現象や生存本能に近い。人間には瞬時に限られた資源を守る為に敵か味方かに区別する条件反射があり、それが差別意識に繋がるという。その為、差別が良くない感情と分かっていながら世の中から無くなる事はない。2019年に在留外国人が多い新宿で行われたアンケートでは、約半数が差別を受けたと回答している。住宅や職業、学校や日常生活など、在留外国人は不幸にも常に差別に晒され続けている。人種差別はストレスを与え、健康にも悪影響を与える事が米国の研究でも分かっている。このような状況で、移民受け入れありきで、差別は良くないと言っても差別の被害者は増えていく一方なのだ。

 

パーソル総合研究所が2019年12月10日に発表した「外国人部下を持つ日本人上司の意識・実態調査」では、外国人の部下を持つ日本人の上司の4割が「強いストレス」を受けていると回答している。差別や外国人とのトラブルを無くす最も確実な方法は、「差別意識を持たないように」と教育をする以上に、差別や価値観の違いによる「トラブルを産む状況を作らない事」が重要だ。

 

移民を受け入れる国は差別を無くす教育をする為の実験場ではない。軋轢に繋がる可能性のある人間とうまくやろうとするのではなく、もともと、それぞれの場所で別々に暮らす事が何より問題を作らないのだ。いくら仲のいい友人でも、いきなり自分の家に居候すれば争いの種が出てくるかもしれない。「差別や拒絶感情を持たないようにすべき」というメッセージと「実際に差別が無い現実になる」かどうかは別問題である。

 

また、2016年の時点ですでに新生児の30人に1人は両親か片方の親が外国人となっている。未就学の問題はもちろん、あえて不幸を呼ぶ可能性がある環境にする事が賢明なのか、問われているのだ。一方で、いくら日本人が差別意識をなくし外国人に寛容になったとしても、外国人が犯罪など敵対的な行動を取る可能性もある。その場合の被害者はもちろん日本人だ。

 

◆国境があるから独自性が生まれ、全体として多様化する。多様化促進で逆に単一化に向かう日本と世界

 

江戸時代は日本独自の文化が発展した時代であった。関所があり交通の弁も未発達で人の往来が限定的だった。地方自治が実現されており、それぞれ藩では独自の文化や特産や名産品が生まれた。独自の県民性があるのも県の名物があるのも江戸時代の藩の独自性がもたらしたものだ。もちろん世界に目を移しても同様で、世界レベルでも情報や人の流れが限定的だった50〜100年前までは今よりはるかに国ごとの文化や価値観の違いがあった。

 

しかし、戦後の日本は移動が活発化しTVが普及したと同時に地方から都心部に人が集中し、都心部は様々な県民の流入により多様化していった。しかし、いずれ都心部や地方とも画一化し、同じような風景が日本全土に広がり、東京では「江戸っ子」気質もほとんどなくなり、地方でも独自の方言も消えていっている。実際には複数の価値観が混在するような多様性の社会ではなく、複数の価値観が一つの価値観に収斂して単一化しているのだ。

 

つまり、今後、近隣から移民が大挙して流入すると「日本らしさ」という固有性が徐々になくなり、供給国となる中国やアジア諸国と似通った一つの価値観で日本らしさは日本人の減少とともになくなってしまうだろう。皮肉にも日本が貿易大国であるのも観光客が訪れているのも、日本の独自性がもたらした遺産である。そこにすがりつつ、移民を受け入れるのが多様性で善だと言えるのだろうか。

 

多様性が、色んな人種や価値観の地球上での混在を意味するなら、少子化問題とは、日本人や同じく少子化に悩む先進国の人々の独自性の衰退を意味する。欧米ではいずれ白人が少子化とともにいなくなるかもしれない。欧州はイスラムとアフリカ移民だけの国になり、アメリカはヒスパニックと黒人系だけの国になり、日本はアジア系と中国移民の国になるかもしれない。多様化とは逆行する現象であるとも言える。長い目で見ると、イスラム圏など出生率2以上のキープの見込みがあるわずかな民族しか遠い未来には地球上にいないことになる。

 

――第二部//少子化対策――

 

少子化対策の論点整理と解決への考え方、本稿の概要


現在の政府、自治体の少子化対策の主要事業は主に保育の拡充や育休の促進、児童手当、幼保無償化など育児環境支援が中心であるが残念ながら、出生率は停滞したままで、成果は全くと言っていいほど出ていない。2021年の出生率も再び1.3となり、危機的な数字になった。なぜ効果のない対策しかしてこなかったのか。

そもそも対策の主眼は、「結婚して子供を作りたくても作れない人のために、子供を作りやすい環境を整備しよう」と言う点に限られている。踏み込んだ結婚の支援もほとんどないと言っていい。この環境支援での少子化対策の問題点は、結婚を望む独身者や、子供が欲しくても子作りに踏み切れないカップルがどれだけ存在し、本来、人生で最も負担のかかる結婚や子作りや育児をどこまで強く望んでいるのか、その「本気度が一切考慮されていない」にも関わらず、長年続けている点にある。「子作り世代は環境許せば、ほぼ全員が結婚して子供を持つ願望が強い」という根拠のない思い込みが前提になっているのだ。

 

少子化白書の調査などによると、未婚者のうちの3割強はそもそも結婚する意思がなく、結婚願望のある残り7割弱に対する6割が、「具体的な行動に移してない」と回答している。行動に移すほど結婚を熱望してないという事だ。つまり、どれだけ環境が整備されてその結果、結婚へ至ったとしても、計算上、2割は未婚なのである(未婚の3割は結婚の意思がない。残りの6割は結婚への行動をしていない)。確かに、未婚者は所得が低い傾向があり、諦めの感情の結果だとも考えられる。しかし、低所得でも結婚や子作りを禁じられているわけではない。現代人は所得やその他の条件次第で簡単に諦めるように「本気度」が昔の時代より薄くなったという事である。1970年代までは年収に関わらず、皆婚状態だったにも関わらず、1980年代になって以降、年収によって未婚率に差がついてきたとうことは、人により、本気度に差が出てきたという事である。


また、そもそも結婚の意欲調査のアンケートには信憑性があるのだろうか。太った人間に、「ダイエットをしたいか」と聞いて、「したい」と答えた人間に、ダイエットメニューの提案をしても苦痛を伴うダイエットを実際に行うかどうかは別問題だろう。本当にダイエットをしたければ自分で効果的なメニューを探し、実行しているはずであるし、そもそも太るような生活をしていないとも考えられる。意思があるかないかではなく本気度の検証とそれに応じた対策が重要だ。

結婚や出産を大して強く望んでないのであれば、少子化対策として育児支援などの環境整備事業にはほぼ意味がないということになるし、現実的にも効果は全く現れていない。しかも、少子化の最大の要因は3割を超える生涯未婚率の高さであるが、激増した独身者に対して育児支援は縁のない政策だ。「育児対策が不十分だから結婚をためらう」という仮説は飛躍しすぎているだろう。

 

では、効果が見込める対策とは何なのか。それにはなぜ、結婚をしなくなったのか、子供を多く作らなくなったのか、過去に置いてはどういう環境で子供が増えていたのかを知る必要がある。そもそも人が行動を起こすには必ず理由や動機がある。大正時代や終戦直後など、今より格段に貧しかった時代に子沢山だったのはなぜか。昔は今では許容されない「結婚して子供を作るべき」と言う固定観念が社会やコミュニティで共有されたていた事による見合い結婚の促進や出産があった事、避妊や堕胎が無かった事、娯楽が少なく性行為が短かだった事。後継や働き手の確保と言う動機など、単純に子供が欲しいという親心以上に多くの子供が生まれる要素や動機があった。現代人がそうした価値観を否定しようにも、現代人はそうした価値観で生まれた子供の子孫である。

 

ではなぜ、現代は独身者が増え、既婚者の子供の数も減ってしまったのか。少なくとも言えることは、現代社会においては、コストと手間と時間を犠牲にしてまで子供を作るメリットや動機に乏しくなった事が主因である。子作りの動機や必然性が減退したため結婚の必要性も薄れたのである。その結果、所得など環境面で不利な低所得層から結婚をあっさりと諦めてしまうようになる。

 

したがって、効果が見込める少子化対策とは、環境を整備して結婚と出産をただただ期待するのではなく、子作りをした事によるメリットと子作りをしない事に対するデメリットを与え、不利な環境でも子作りをする方がメリットとなるように動機付けするような対策が効果的なはずだ。より直接的に子作りを動機付けるような対策こそ重要なのだ。子作りの動機が増えれば、所得の低い独身者も結婚へ積極的になり、結果的に婚姻率と出生率が向上するはずである。つまり、子作りをしたいと大して望んでない人にいかに働き掛けられるかが少子化対策の主軸になる。


しかし子作りを直接、国民に動機づけるような対策は自由や権利、人権を制約するものとして批判が大きい。つまり効果が見込めそうな対策に対するハードルは、国民の人権や選択の自由である。こうした人権を制限してまで出生率を高める対策をとるべきかどうかを「天秤にかけ」どう捉えるかが重要である。逆に言えば、そこのハードルを取り払う事に国民が納得すれば、子作りの動機に直接的に働きかけ、効果的な対策が取れる可能性がある。

少子化対策の目的は少子化を解消する事にある」


少子化解消の為に、多少の権利や自由の制限もやむなしと考えるか、少子化で将来的な社会が衰退し続けても、現代人の権利や自由の尊重を重要視すべきか、どちらを優先するかの問題である。少子化対策とはイデオロギーではなく、問題解決の手段である。

現代人は人権や自由こそが、最重要な守るべき価値観とされているが、本当に人種の存亡に繋がる少子化解消より、現代人の子作りをしない権利を守る方が重要なのだろうか。比べるべき対象では無いという批判もあろうが、効果が期待できそうな少子化対策の上での最大のハードルである以上、比較検討対象とすべきである。

目的が手段を正当化するかどうかは、手段におけるデメリットが目的達成のメリットを下回る場合だろう。自動車という移動手段は確かに交通事故を引き起こすが、素早い目的地への移動というメリットを考えれば交通事故の頻度は許容範囲とされているから運用されている。

人権が尊重されることはもちろん憲法に保証された、最も重要な権利である。しかし、少子化が解消できないと物理的にその人種は時間の進行と共に滅ぶ事になる。人権や選択の自由を主張したり行使できるのも人間として存在しているからであり、少子化が進むと人間がいずれ存在できなくなってしまう。

 

その為、たとえ人権を制限する対策であってもやるべきだと考える。また、子供を作ることは本来、生物が持続する上で「絶対必要条件」である。人権を主張できる人間が存在できるのは、世代ごとに子供を作る行為の連続の上にある。また、人の命を作る行為を促す事が人権を制限するという考え方は本末転倒でもある。

 

本稿では、具体案も多数示したが、その対象はあくまで日本国籍者であって、住民登録された外国人は含まない。彼らを含めてしまえば、日本国民を増やすという趣旨から逸脱してしまうのはもちろん、金銭補助プランをあてにされる可能性も高い。近年は健保や約40万円の出産手当金を不正還付する事件も発生しており、対象はあくまで日本国籍者に限るべきである。帰化者も金銭補助目当ての帰化を避ける為に、帰化後10年など、制限を設けるのが望ましいだろう。

 

第一章・少子化対策はなぜ困難なのか

少子化問題においては「個人と集団(国家・社会)」の利益は相反する。文明化した民主主義では少子化は必然。民主主義は個人と国の利害が一致しない問題の解決は苦手

 

少子化対策はいわば「囚人のジレンマ」というべき状況なのである。本来は皆が、苦労して子育てすれば持続的な社会が成立可能なのは理屈としては分かるが、個々のカップルにとっては子供を作らない方が自分達の生活水準を高く保つことに繋がる。(とはいえ、子供を育てたあとは自分の子供がいる方が、老後は幸福度が高いはずなのだが、少なくとも子供を作れる若いうちは子供を作らないという判断をしてしまう)。

 

経済的事情や、自身の都合優先で子供を作らない事は確かにその個人にとっては理にかなった行動原理であるが、集団、および社会全体にとっては少子化をまねくのでマイナスとなる。個人の選択では合理的な行動でも社会にとってはマイナスであるのは経済学用語で言うところの「合成の誤謬」ともいう。逆に個人(日本人)が子作りの負担を受け入れれば、社会の持続性(日本人の存続)は担保され、その逆もしかりという事になる。

 

少子化問題は日本以外の先進国でも直面している。近年では経済発展が著しい中国も少子化に直面しており、2016年1月に一人っ子政策を廃止した。そうは言ってもいまだに年間1500万人弱の出生数を誇り、まだ対策する段階にないが、多額の罰金がかかる一人っ子政策を実施していた国でもあり、その気になれば子供を作らないと罰金を課す事は容易いだろう。しかし、民主主義では個人に負担を求める政治課題の解消は苦手であるという認識が必要だ。

◆解決が難しい問題の特徴とその「心理」

 

解決が難しい問題の特徴は、その合理的な解決方法に対し、人間が元来持つ心理や感情が邪魔をしてしまっている事がほとんどである。なぜ、少子化対策の解決策の前に心理や感情の話をするかと言えば、少子化対策もその目標である「子作り」が極めてプライベートな問題でありかつ、個人世帯の決定事項で、その人が置かれた環境や意思、感情により大きく左右されるからだ。出生率増加という目標に対しての合理的な解決策に対しても個人の感情が障壁になってしまう。そのため、効果が見込める少子化対策に必要な、合理的な判断を阻害してしまうような感情や心理を理解する事により、出来るだけ適切な判断や評価を下す事が重要になる。

 

人間は、自分の持つ思想や信条がまず第一だ。それに反するような解決策は、少子化解消という目的の達成より、重要視してしまいがちだ。少子化問題が叫ばれて30年以上経つが、出生率が停滞したままで、解決されていないと言う事は、許容されうる現状の対策では効果がなく、許容できない対策にしか活路がないという事態が暗示されている。

 

対策による効果が表れていない場合はその対策が「不十分」とみるか「方向性が間違っている」とみることができる。少子化対策ののちに、出生率が多少なりとも右肩上がりであれば、「不十分」とも見られるが、現状は1.42でほぼ停滞したままで、対策の「方向性が間違っている」と見るのが妥当な判定である。しかし、変化を嫌い、同じ効果の上がらない対策と言う行動を取り続けてしまうのが人間である。これを心理学ではコンコルド効果とも言う。コンコルドのようにいくら速くても、燃料費が高すぎて途中で不採算と分かっていても、その金銭的な損失以上に、プロジェクトを進行してきたこれまでの「労力が無駄になる感情」を嫌う心理である。


少子化対策が「常に先送りが必然的」な政治課題である宿命。

少子化問題のように、解決困難な難題の特性としては、「受益者と負担者が異なる」という致命的な問題がある。少子化対策は社会的コストがかかるが、少子化対策の成果が出るのには性質上、どうしても時差があるため、負担者が受益者になるには数十年もかかる。どうしても対策が後手に回って遅れてしまい、結局、何らかの理由付けをして、対策を打たない事になってしまうのだ。例え効果的な少子化対策を充実させて結果が出たとしても、少なくとも納税者になる大人に育つまで20年近くを要してしまう。

 

国や自治体も、それなら、経済対策など、他の目的に財源を使うという判断になる。国民に子作りをお願いする必要性があっても、もそれだけで、反発を招くためやはり後回しになる。つまり、常に少子化対策とは、長期では切迫した政治課題であっても、短期では優先事項にはなりにくく、結局、いつになっても対策に財源が使われる事はなく、政治課題として、真正面から取り組まれることもなく、結果、常に優先順位は低いままなのである。国民の反対をゴリ押ししてでも実現する消費増税のように、翌年から増収の果実が得られるわけでもない。子供がいない世帯に本格的な負担を求めるような、身のある対策は受けが悪く、仮に将来的に効果があっても、推進する政治家にとってはすぐ果実が現れる事はないマイナスな政策であるので、政治家も消極的になってしまう。そもそも、人間は長期的な展望が苦手な生物である。その弱点を踏まえた対応策をとることが重要だ。

 

◆重要性が認識されていない少子化対策

 

問題は持続性のある社会を構築するために不可欠な子供を作る事の重要性を、ほとんどの国民や政府も認識と理解をしていない事である。政府や国民も、自国民の存続より、来年の経済発展の方が重要だと思っている。個人も自分の生活にしか関心がないし、実は自分の存在否定にも繋がる子供を作らない自由と権利を平気で主張する。経済団体も、今現在の経済効率を最大化するため、日本人の出生率を高める努力ではなく、外国人労働者の導入に勤しんでいるのである。これがどれほど、日本人の存続に悪影響を及ぼすか、という理解もまるでなく、政治家もまるで他人事で理解しようともしていないかのようである。


◆「票に結びつきにくい」少子化対策、利権化が難しく推進する政治家がいない。

 

また、少子化対策は政治家にとって利権にならず、得票にも結びつきづらいのも後手に回る理由だ。利権にならないために、官僚も真剣に取り組まない事にも繋がると考えられる。政治家は世論の大多数が賛成するような政策であるか、増税や公共事業など、直接利権に関係するような法案を優先的に実現しようとする。その方が自身の政治家人生にとって合理的である。

 

また、少子化解消に必要な出産育児は人生でも最も負荷の強い仕事で、金銭や時間、体力的な負担も莫大だ。つまるところ、少子化対策とは出産適齢世代に多大な負担の上で、沢山の子作りをお願いする事である。少子化対策とは本来、ものすごくパワーを要する政策になり、その割に政治家にとっては直接的な利益がないのである。それでも国を思い実行できる政治家がいるか、という事だ。


少子化”社会”対策と少子化対策の違い

 

よく、少子化はAIや自動化、外国人労働者の対応で克服可能と謳う言説があるが、それはあくまで少子化社会にどう対応するかの対策であって、日本人が減り続ける少子化の対策では全くない。AIやロボットや移民などで社会が合理化されても、日本人が子供を作らない事実には変わらない。仮に合理化されて、結果的に少子化が抑えられれば、困難な対策をしなくてもいいが、それは「出生率が2以上になってから」政策を変えるべきだろう。タラレバの楽天的な期待に懸けて対策をしないのはただの無責任である。「少子化社会対策」と「少子化対策」の違いの区別は明確にしておくべきである。

 

少子化問題は政治、経済、財政、社会、性欲、モラル、法律、価値観、心理、あらゆる問題の結果、全部ケアしないと解決しない。

少子化問題は関係するテーマが多すぎることが解決を難しくしている原因になっている。
政治、経済、財政、社会、所得、性欲、モラル、法律、価値観、心理、など、多岐にわたる分野が関係する。これらの問題を政府や自治体のそれぞれの部門で別個に担当して結果を出すのは不可能に近く、それらを変える全ての権限を有しているのは総理大臣ただ一人しかいない。結局、総理大臣がやる気にならなければ少子化問題の解決は不可能に近い。

 

第二章・結果が一向に出ていない少子化対策の現実

◆現状の対策、育児支援策で効果が「全く出ていない」現実。

 

少子化対策が、保育園増設や男性の育休など、環境を整えればOKと言う生易しいものではない。そうした対策はもちろん、育児世代には有り難いもので、やらないよりはやった方が良いのは言うまでもない。しかし、現実には出生率は回復の兆しすらなく、大幅な方針転換を促す意味も込めて「効果は全く現れていない」と言い切らなければならない。例えば、保育所の定員は2008年に約210万人が2015年には280万人に増加。(因みに待機児童は横ばいだが、これは、保育園の入所希望者が増えたため)。また、育休も1996年頃はまだ50%程度だったのが、2007年頃には90%程度に達し、現在もその水準を維持している。育児環境もこの50年で大きく向上した。洗濯機は全自動洗濯機が乾燥まで可能になり、使い勝手のいい紙おむつも普及し、缶のミルクやレトルト離乳食も登場し、外出も容易にたった。街中ではバリアフリーや、商業施設でのキッズコーナーも拡充された。レストランでも幼児可のところが増えた。このように、環境面は確実に良くなっているのに、出生率は2019年に1.36に落ち込んでしまった。

 

出生率が高い小規模自治体のカラクリ。最高レベルの育児教育支援が受けられるフィンランド出生率も日本同等の1.41に低下。

 

自治体レベルでは出生率が2を超えるような地域は確かに存在しているが、からくりがある。例えば、手厚い育児支援に力を入れる岡山県奈義町は2014年、自治体独自の調査で出生率2.81となり話題になったが、これは何の事はない。周辺自治体などから出産育児のため、人口5000人強の町に支援を期待した数十人が移り住んで出生率の数値をあげたにすぎない。実際、あえて自治体が独自調査をした2014年は63人の転入超過になっており、他の年度の出生率は2以下となっている。

 

同じく育児支援に力を入れ、成功モデルとされた長野県下條村でも同じように周辺自治体からの転入者で出生率が嵩上げされたにすぎない。決して育児支援の効果でその自治体の元いた住人の未婚率が下がり、出産が増えたわけではない。結局は、育児支援は、全国均一にしないと単なる出産世代の奪い合いになるにすぎず、国全体の出生率を上げる上では意味がないのである。

 

また、先進国でも比較的出生率が高く、世界最高レベルの育児支援が受けられる北欧のフィンランドでも近年、出生率が急減した(2011年では1.87だったが2018年は1.41)。フィンランドでは妊娠すると、子育てにまつわるありとあらゆる相談を受けられる「ネウボラ」と言う施設が用意されていたり、育児用品が揃った「育児パッケージ」もしくは現金が送られてきたり保育園も無償だ。父親の育休消化も日本の4%弱に比べて出産直後は約70%、9か月以降でも36%取得していると言う。保育園の預かり時間も最大10時間でベビーシッターも最大で4万円弱で利用できると言う。児童手当も17才まで受給でき、日本より1.5倍ほど高い。しかも大学卒業まで学費は無料で交通費まで支給されると言う。国民の幸福度ランキングでも世界トップの常連だったフィンランドは北欧モデルとして近年は出生率が高かった。

 

しかし、この10年で徐々に低下。理由は定かではないが、「若者の産まない自由の選択の結果」「まだ女性の権利が十分ではないから」「雇用が流動化し、不安定になったから」などの分析がされている。やはり育児支援は育児世帯にとってはありがたいが、出生率を上げる目的の対策としては失格と言い切れるだろう。 

 

◆無責任な建前主義で誤導する少子化解消ストーリーの虚構。本当に子供を欲しくても作れない世帯はどれだけ存在するのか?

 

政府の少子化対策の基本哲学は子供が欲しい世帯に子作りしやすい環境を提供するというもの。しかし前提として、子供を強く欲しがりながら環境により断念する世帯が多数存在して初めて効果が見込める政策だ。まず、この大前提の子供を「本当に欲している」対象世帯がどれだけいるのか、検証したのだろうか。

 

確かに夫婦へのアンケートでは、「希望の子供の数」は2・5人とある。しかし、「予定の子供の数」は2.1人ほど。少なくとも、世帯年収が1000万円を超える高収入の世帯でも子供の数が2人を超えるのは半分程度の世帯にすぎず、半分は一人っ子や子なしだ。第一、共働き世帯の割合が6割強で3人目を求めるのは現実にはかなり厳しいし、実際、パワーカップルと言われる高年収の世帯も完結出生児数は2人が相場である。

 

まず、労働政策でもある女性の就労促進が、少子化対策と矛盾する。「資本主義の中、誰もが収入を伸ばし、男女ともに正社員として働き、狭小な住宅事情にもめげず、保育園を利用して2人以上を目指す」と言う、理想モデル自体、無理筋だろう。現実的に出産適齢期の女性でも、社会が労働力としてカウントしていると、どうしても育児休暇などの就労調整の難しさから、産まない圧力に繋がってしまう。

 

政府の仕事は願望を並べ立てるのではなく、実現性のある政策の積み重ねで目標を達成する事のはず。保育園の整備と男性の育休を推進すれば、不思議と共働きの世帯が3人目を考え、なぜか、未婚者の婚姻が促進され、少子化の解消に役立つと政府の政策では考えられている。今一度、抜本的な検証が必要だ。

 

◆保育サービスを利用しながら働くことを「育児と仕事の両立」と言えるのか。その生活状態で多産は可能なのか。成り立っていないスローガンを叫び続ける罪深さ。

 

「育児と子育ての両立が重要」と、スローガンを言うのは簡単だが、本来、乳児や幼児は24時間で手間がかかる。そもそも仕事と育児の両立といっても、仕事をしている間の育児は自分ではなく、行政サービスとしての保育士が負担している。つまり、ほぼ税金が負担して親ではない保育士が育児をするサービスを利用しながら働く仕組みを「仕事と育児の両立」と言っているのである。


現状で出産可能な女性の既婚率は約7割。少子化解消には3人の子供が必要だが、現状では2人までしか作られていない。25-44歳の女性の就業率は72.7%(労働力調査H28年)であり、現在は大半が働きながら育児をしている計算になる。少子化が深刻になった1980年以降の40年間、少子化解消のため、労働と出産育児の両立が叫ばれながら少子化解消に必要な3人以上は作られておらず、完結出生字数は2人弱しかいないという現実がある。つまり40年間、毎年失敗しながらもその願望的な「仕事と育児の両立」という方針を変えず、「途上」だと言い張り、毎年も懲りずに期待だけしている状態である。

 

「改革途上だ」という目標未達を正当化できる説明がいかに罪深いかがわかる。経営者にとっては「低賃金で良い人材の確保」の両立をしたいものだが、それは単なる願望であり、実際に堅実経営をしているとされる上場企業のほとんどは平均賃金を大きく上回っている。長年の願望とはそのほとんどが実現できない目標である事の裏返しでもある。

少子化社会において出産育児に集中することは活躍ではない? 専業主婦と兼業主婦の不公平な格差。税金と個人負担による保育負担のおかげで労働力と売上を確保できる企業

 

現在、都市部で多い0歳児保育は乳児1人につき月約18万円の税金が投入されているという試算がある。一方で専業主婦は24時間、子供と向き合い、無給で育児をしている。専業主婦は恵まれているというが、福祉利用の観点では、兼業主婦の方が恵まれていると明確に言える。なお、最新のデータでは0才児の保育園利用率は4割程度(母親2・5人に1人)なので1人につき7万円(18万円2.5人)払って自宅で親が育てることも可能で公平かもしれない。また企業側の視点では、保育サービスのおかげで子育て世帯の女性を労働力として活用する事が可能になっている。それなのに、社会福祉は国民からの消費税から支払われる事になっているのもおかしな話だ。

 

とはいえ、もちろん、保育園の存在は子育て世帯には貴重である。核家族化した現在は、育児は母親だけでしかやらなければならない状態も多く、育児ノイローゼを防ぐ意味で保育園の存在はありがたいもの。ただ、乳児や幼児を育児中の親が場合によっては税金とほぼ変わらないお金の為にフルで働くというのは矛盾した制度であると言う指摘は重要だ。

 

◆長期的には出産育児適齢期間の女性は就労より出産に集中して3人産む方が、14倍経済効果が高く、12倍の税収増になる

 

出産適齢期である、30才前後の女性の平均年収はおよそ300万円。出産育児が負担の多い期間で10年間とすると、その間で1人の女性が労働すると、3000万円分のGDPに影響する。このため、政治家や企業経営者も、できるだけ出産適齢期の女性にも働いてもらった方がその段階ではGDPはプラスに働く。しかし、自分たちより後の世代の政治家や企業経営者は出産適齢期の女性の就労による出産機会逸失による人口減で必ずマイナスになる。逆に、10年の間に3人子供を作ればどうなるか。現在一人当たりの平均年収は400万円なので、育児期間を踏まえ、控え目に35年働いたとしても、1億4000万円になる。3人で4億2000万円だ。つまり、10年で女性1人につき、3000万円のGDPを諦める代わりに、子作りをした方が、経済的にも、後の社会の持続性と言う点でも、はるかに、プラスになるのである。

つまり、出産適齢期間の10年間に区切った視点では、目先の3000万円を取るか、子供が大人に成長した後の1億円以上(子供1人だけでも)を取るかである。また、税収面でも10年間働けば、大目に見積もると1000万円の税収・公的支払いが期待できるが、3人の子供を作ると、1人につき4000万円の税収が期待でき、税収合計では計1億2000万円となり、長い目で見れば軽く12倍の税収が期待できるのである。

 

働く男性の生涯賃金は2億円前後とされて、女性はその半分強。しかし、出産による経済効果と社会構成員を育てる重要度を考えると、やはり子作りができる女性の方が社会貢献度は高いと明確に言えよう。もちろん男性も育児はするが。。いずれにせよ、子供を作る、人間を作るという事は言うまでもなく、祖先から子孫に命を繋ぐ行為で尊く、社会貢献度も極めて高い「事業」とも言える。

第三章・少子化対策の現状と問題点

少子化の現状と対策の現状

 

かつて、日本のみならず、欧米でも1910〜40年代は多産の時代だった。これは子供を持ちたいという気持ちに加え、社会のプレッシャーや後継や労働力としての需要や、堕胎や避妊がなかった事や栄養価の改善と医学の進歩により、幼児死亡率が大幅に減った為だ。その後、現代に繋がる生活の多様化などで出生数は減ったものの、1960年代頃までは大抵の先進国も2を上回っていた。しかし、その後は徐々に出生率は低下し、そのまま停滞して現在に到る。この間の最も大きな変化はライフスタイルの多様化による晩婚化と非婚化だ。結婚して子供を持つ方がいいか、独身のまま自分のキャリアと自由を優先するか。その選択において、経済的、ライフスタイル的な優位さがあるのは後者なのは言うまでもないだろう。

 

一方で、ここ50年近く、希望の子供の数は2人強でほとんど変わっていない。また、その間、実際に結婚した夫婦の完結出生児数も2人前後で推移し、こちらも大きくは変わっていない。

 

少子化の大きな成立条件は1990年あたりから、現在に到るまでの生涯未婚率の上昇である。つまり、皆婚状態であれば、現在でも出生率は1.8程度、維持できるのに未婚者が増えた為に、出産できる母数が減ってしまった為に現在のように1.4近辺で停滞しているのである。これは皆婚状態であれば、例えば、200人の男女がいたとして、その子供が1世帯平均1.8人の出産をすると、180人だが、このうち、2割が非婚だと180✖︎0.8で144人(出生率・1.44)となり、現在の数値とほぼ一緒となる。

また、女性の初婚年齢も出生率が2を切り始めた1970年代半ばの24.5才から現在までほぼ右肩上がりで、現在は29.5才程度である。この初婚年齢が上がると、子供の数が減ってしまう。

 

◆なぜ、少子化は、育児環境や所得、政治のせいにされるのか。少子化の「原因の誤解」が産む、見当違いで無意味な対策

 

子作り世代が、出産育児の手間の回避と生活水準を高く保ちたいという願望で結婚と子作りを躊躇していると仮定すれば、少子化問題を論じる上で子作り世帯にとっては都合の悪い話である。そのため、育児環境や経済状況の困難さなど、政治の無策のせいにしておきたいのではないか。メディアにおいても"顧客"である国民を悪くは言えないためなのか、そのような言説が多い。人間、誰しも触れられたくない事情や不都合な現実は隠したいものだ。

少子化は政治が悪いから」等、一部分しか当たらない要因をさも、全ての少子化の原因であるかのように都合のいい解釈や理屈で理解していると思えてならない。誠実に問題の解決を目指すなら、公平な視点で事実を元に検証しようとする誠意が重要だ。そもそも「政治が悪いから仕方がない。自分たちは悪くないので解決への努力をする必要はない」と、国民による少子化解決の必要性を否定するのもおかしな話である。

 

また所得や育児環境など同じ条件でも、結婚して子作りをする世帯がいるのに、結婚しない人の「所得が低いから、育児環境が悪いから」という言い訳を、政府・自治体が本当の少子化の原因だと誤解してしまっている。これでは見当違いの対策しかされないのも無理はない。いつまでたっても効果が上がらないのも頷ける。

 

例えばAさんからの誘いが億劫で、何度も「多忙」を理由に断っているのに、多忙さがAさんの誘いを受けない理由だから、「仕事が少ない時期に誘ってみれば」と言う提案はおそらくいい結果を産まないだろう。結婚して子供を作る労力が100として、環境支援で50になっても、そのどうしても無くならない50の労力を嫌がる人には環境支援は意味をなさないのだ。

 

つまり、結婚や子作りの意欲が元々低い人に誰しもが持つ環境面などの不満を聞き、それが少子化の原因だと思い込んでいるから対策はいつも空振りしてしまうのだ。元々、ご飯食が好きな人に、パンの味が向上したと知らされても、主食をパンに切り替えるとは限らないという理屈だ。

 

◆年収が全国平均2倍で待機児童がほぼいない千代田区でも、出生率は全国平均以下の現実。

 

政府が環境を整えて出生率が上がるなら、待機児童のない地域や高所得者層の出生率は良いはずであるが、恵まれた条件下の家庭でも出生率は2弱程度である。東京都千代田区でも待機児童ゼロで世帯年収は全国平均の2倍。それでも出生率は全国平均以下の1.34である。少子化で政治家がしばしば「子供を産んで」と発言すると、国民から「産める環境を整えるのがお前らの仕事だろ」と言うが、実際はいくら環境が整っても、結局、現代人は子供を産んではいないのが現実である。

 

もちろん、千代田区においても待機児童の解消が有効なのは数字にも現れており、05年には0.75だった出生率は待機児童の解消策などにより、1.34まで格段に向上している。しかし、同時に人口維持の段階に押し上げるには程遠い水準であるのも事実だ。シンガポールでは年収900万円が平均世帯と言われており、出産手当が約170万円、保育所にも入りやすく、外国人のメイドも安く雇えると言うが、出生率は1.17と日本より断然に低い。環境が良くても出生率向上と無関係なのは明らかだろう。

 

◆政治家の「子供を産んで」発言批判の「無責任」

政治家が、「子供を3人以上産んで」などと発言し、不謹慎だとして定期的に話題になっている。ただ、こうした政治家の発言はもちろん、深刻な社会問題として存在する、悲惨な出生率の改善を期待した発言である。しかし、批判する人間は「ただただお願いするのではなく、安心して産める環境を作る事が政治家の仕事だろう。女性は産むために存在するのではない」と声高に叫ぶ。それはもっともだが、現実的には環境が改善したり、比較的恵まれた環境の世帯でも子供を作っていないという現実がある。行動を起こしていない人間に政治家を批判する資格があるのだろうか。また、政治家が悪く、環境が悪ければ、後の世に子供を残す為の負担から免れられる理由になるのか、慢性的な栄養失調状態で乳児死亡率も高かった江戸時代以前をはるかに下回る現在の低出生率を政治家の環境整備のせいにできるのか、よく考えなければならない。

 

第四章・少子化の原因

◆育児環境が向上すれば、出生率が向上するの「間違い」。育児の不満解消対策と出生率の因果関係はないと言い切れる。

 

環境が改善されれば生まれるのか。国内でも自治体単位でどんどん育児支援メニューは充実している。環境は改善されており、育休取得率20年前から飛躍的に向上し、待機児童も減少傾向だ。

保育園の充実や育休の促進など環境面の対策は普遍的な目標があるわけでは無い。環境の良し悪しを最終的に決定付けるものは物理的な尺度では無く、個人の価値観だ。育児用品や全自動洗濯乾燥機など、生活家電は進化し、育児制度でも待機児童は少なくなり、育休の取得率も改善してはいるが、根本的な出産育児の大変さは過去のさらに不便だった時代を知らない現在の子育て世帯にとってはやはり大変に感じる。環境面が向上しても、子育て世帯が望む期待値は常にその上にあり、結局、環境面で満足する事はない。実際に育児環境改善により、出生率が少なくとも1.4以上に改善した例はない。

何かが満たされても、人間はさらにそれ以上の便利さを求めるようになり、結局はいつまでたっても、不満がなくなることはない。少子化の原因はその不満を解消できない行政の怠慢だとして少子化の原因を求められてしまう。

問題はいかに、不満を当然の苦難として受け入れてもらえるようにするかだ。

 

◆「育児環境や生活が向上」した結果、女性の就労機会が増えて自立が可能になり、婚姻率が低下して少子化に繋がった。

 

少子化は育児環境が悪いから起きているのではなく、逆に育児環境改善や女性の社会進出が加速し、女性の就労機会が増えてある程度の生活力が身についていった。そのため、満足いく条件の相手でなければ無理して結婚する必要がなくなり、独身でいることの経済的、時間的メリットの存在感が上がっていき、少子化に繋がったとみることができる。

 

1986年に男女雇用機会均等法が施行されたことで女性の就労機会が増えて少子化に繋がったと言う指摘もあるが、実際はその前から婚姻率は下がっており、出生率も1970年代半ばから2を割っており、少子化が始まっていただの。

 

また、技術の進歩や経済発展により、生活水準も向上したことで、人間の満足度水準が上がってしまい、経済的、時間的、身体的負担のある育児を避ける動機が生まれ、結果的に結婚の必然性も低下したことで少子化に繋がったと言える。

 

◆「少子化の原因」は文明化による価値観の多様化と福祉の充実により、子作りの必要性が薄れた事による結婚の優先度の低下が原因。

 

現在では非婚化は経済事情と深く関係し、少子化の要因の一つでもある。しかし、かつては低所得者でも、ほぼ結婚をして子供がいたのも事実だ。未婚率3%程度で出生率が2.0以上あった1970年代前半も、貧困率の割合が今と比べてもそこまで低いわけではない。

 

しかし、その低所得者層が1980年代頃から徐々に結婚、出産をしなくなってきた。1980年代後半のバブル景気の時も、1997年に日本の平均賃金や可処分所得が最も高かった時も出生率は右肩下がりだった。つまり、結婚に対する意欲や優先順位の低下により、結果的に条件の悪い低所得者から結婚を避けるようになったのだ。条件が悪いと結婚できないのではなく、意欲がなくなったので、その分、したい人も相手が見つかりにくくなり、相乗的に未婚率が上昇したと見るのが妥当だろう。「橋がないと昔は川を泳いで渡っていたが、今は橋がないと渡るのを諦めるという判断になった」という事ではないだろうか。

昔は「たとえ貧しくとも結婚して、子供を作るもの」という価値観があり、今より格段に多い出生数に繋がっていたがそれが次第に失われ、今では「貧しければ、結婚せず、子供を作れなくても仕方がない」と、価値観が変わってしまった事が一番大きい。価値観が変わって、貧しければ子供を作れなくても仕方がないと考え、結婚をしていない階層に、いくら育児支援を拡充したとて、十分な効果が見込めない事が分かる。その上、今はライフスタイルの多様化で、1人でも趣味やスマホで楽しく生きていける。所得や育児環境などが少子化の原因という説は少子化対策の研究者が「いつの時代でも子供を作りたいはずで、悪いのは経済状況や環境だ」というのは単なる思い込みではないか。つまりは低所得者層の未婚者の偏りは、無理して結婚して子供を作る必要がないと考える少子化現象の結果であると考えられる。因果関係と結果は混同されがちだが、冷静に見極めなければならない。

 

◆ライフスタイルが多様化した現在において、子作りの自由意志が少子化を加速させている現実。韓国ではアンケートで20代の48.5%が「子供は必要でない」と回答。

 

政府や有識者がイメージする少子化対策の対象である「子供を作りたくても作れない人」は少子化をそれなりに改善するほどの潜在人口は存在していない事が分かる。つまり、現在の少子化進行の原因はその善悪に関係なく「結婚しない自由、産まない自由」の"行使"の結果によるものである。今まで、結婚出産が当然だったからこそ人口が維持できていたのに、「子作りをしない選択肢」を正当化できる価値観が広まれば少子化が加速するのは必然だ。

 

2019年の出生率が0.92と過去最低を更新した韓国では、韓国統計庁が発表した「2019年韓国の社会指標」によると、 アンケート調査を行った18年時点で、「子どもが必要ではない」と回答した割合は13~19歳が53.6%、20代が48.5%、30代が40.1%で、子供を作れる若年層ほど高かった。しかも、高年収に繋がる高学歴でこの傾向が強かったという。韓国より、1.5倍出生率が高い日本では、ここまでの意識はないだろうが、それでも同じような生活水準である日本でも、傾向は同様だと考えられる。

 

この現実はとても重要だ。今までは少子化が進むのは大部分が政治の無策が原因とされていたが、現代人の価値観が原因だという認識が広まれば、少子化を解消する手段はより直接的に結婚・出産に動機付けをする対策が合理的となる。こうした対策は個人の自由を制限するものとして、これまでは批判の対象になりやすかったが、正しい原因(価値観の多様化)の解明により、政策の妥当性が理解される事になるはずだ。

 

少子化問題とは経済的ではなく、精神的な問題。低所得層の未婚率増加は「原因ではなく結果」。

 

少子化現象は高度経済成長期の他の先進国同様に見られる価値観の変化、ライフスタイルの多様化による子作りの優先度の低下が未婚化に繋がって少子化をもたらしていると考えられる。現在の状態のみに着目して、育児や経済面の不都合な状況を取り上げて原因だと誤解するのは危険だ。その証拠に、育児や経済面が恵まれた階層の出生率も停滞したままだ。低所得者層の出生率の経年変化を見ずに、現在の状態のみに着目するため、結果的に育児支援以外の意識改革面の対策を「人権侵害、選択の自由の侵害」と、許さない事が少子化対策が見当違いになって成果を産まない結果になっている。確かに、育児環境は経済状況に左右されるが、一人当たりの生産性は技術進歩で、出生率が高かった時より上がっているので、贅沢をしなければ、平均給与で十分、家族5人を養っていけるはずだ。しかし、生活水準の目標値が高いと、育児の手間と育児資金の為に、多産を断念してしまっている。

付け加えると、もちろん、出生率低下は低所得者層の怠慢ではなく、「経済力を身につけられず、結婚もしない」という批判は筋違いで間違いだ。資本主義である以上、ある程度の格差は仕方なく、資本主義の制度上、必然的に存在する低所得者層を悪者にするのは間違った解釈だ。

 

問題なのは子作りの優先度の低下である。

 

そのため、高年収でも未婚者が増えており、就業構造基本調査(2017)でも年収800万円以上の未婚率(35〜39歳男性)は6.9%もいる。1970年代までは2%以下であり、高所得者も未婚化している。

 

◆独身、子なしの経済的優位性。平均年収の「子あり」より、低所得層の独身の方がはるかに豊かで自由な生活がある。

 

経済合理性から考えると、独身でいた方が有利である。結婚して子供をもうけると、育児は3才までほぼ24時間手間がかかり、家事負担も増大する。自分の時間のかなりが犠牲になる。入ってくるお金は僅かな児童手当と、出産前に働いていれば1年間(最長2年)の育休手当てくらいで、基本的にお金は出ていく一方だ。一方で、独身は仕事時間も基本的には一定で休みもあり、時間は自由に使える。もちろん給料は特段の事情がない限り、全て自分の為だけに使うことができる。このような状況であれば、例え結婚願望や子供が欲しいい気持ちがあっても、多少のハードルがあるだけで「仕方がない。気楽に一人で暮らすか」と、簡単に断念してしまうかもしれない。これでいて、将来的な福祉の負担も子供あり世帯とほとんど変わらない。時には独身は「福祉のタダ乗り」という批判があるが、状況的には間違っていないかもしれない。このような状況の結果として現在の未婚率の高さとして現れているのではないか。 

 

圧倒的に労働より条件が悪い出産育児

 

出産育児と労働と時間の使い方の比較

 

労力の時間/日

お金の使い方

時間の使い方

エンゲル係数(2人以上の世帯)からみた優位性

 

子作り世帯

およそ3才までは20時間

年間子供1人につき、年齢によりマイナス80〜120万円

子供と過ごす

× 60%(1948年)

 

独身、子なし世帯

9時間

プラス400万円(平均年収)

自由

〇 22%

 

 

出生率が多かった時代の子供は「生産財」の考え方で子供が生まれる要素が多かった。現在は「欲しがる気持ち」のみの「消費財」的発想。であれば対策も、現代の知恵を生かし制度の導入で子作りで得する生産財とされるように動機を改善すべき。

 

出生率が高かった明治末期から大正期までの子供は、第一次産業の従事者割合が6割以上と高く、後継や労働力の担い手という「生産財」的な要素が強かった。また、そのプレッシャーのため、また夜間の娯楽のための性行為など、子供を欲しがると言う純粋な欲求以外にも、結果として子供が多く生まれる要素や環境、動機が多かった。そういった価値観や背景的要素は現在では否定的だが、そうした先祖の子作りが結果的にあったからこそ現代人存在している。しかし、現在は子供を欲しがると言う純粋な欲求に以外には子供が生まれてくる要素が少ない。いわば「消費財」的価値観で、コスト要因になっているため、生活に余裕がないと子供を持とうという動機が減退する。もちろんその状況でも一定の出生率確保ができていれば問題ないが、現実はそうではない。であれば、法律や社会制度、政治的なアプローチで子作りを促すしか社会の持続性を担保する方法がないのではないか。

 

ƒ第五章・少子化対策の効果は倫理観や個人の権利と相反する。

◆理想的な、自由意志での子作りによる少子化解消は非現実的で破綻状態。環境面での満足度を完全に満たしても出生率目標は未達

 

現在の少子化は現象面から見ると、子作り世代の現状3割以上という致命的な未婚率の高まりに要因がある。しかし言われているように未婚者は「全員、結婚したいが環境のせいでできない」訳ではない。結婚や子供を望む、本気度が足りていないのだ。繰り返しになるが、少子化白書の調査などによると、未婚者のうちの3割強はそもそも結婚する意思がなく、結婚願望のある残り7割弱に対する6割が、具体的な行動に移してないと回答。行動に移すほど熱望してないという事だ。つまり、これだけ環境が整備されてその結果、結婚へ至ったとしても、計算上、2割は未婚なのである(未婚の3割は結婚の意思がない。残りの6割は結婚への行動をしていない)。

そもそも、個人の理想とされるライフストーリーが、社会全体として少子化を招き、社会の持続性としては破綻している。高校や大学を卒業し、いい会社に就職し、いい結婚相手に巡り合って、子供を2〜3人作ると言う目標はかなりの人に取っては現実離れしている。この条件を妥協したとしてもやはり、厳しい。最も、難しい条件が「いい結婚相手に巡り合って」と言う部分で、巡り合うと言う部分は実際は競争で、敗者が必然的に存在し、その分は少子化に繋がってしまう宿命があるのだ。昔の日本のように、半強制で周囲が勝手にあてがうくらいにならないと、ほとんどの人が、結婚するのは構造的に不可能なのだ。結婚したい人、できる人がすればいいと言う風潮であれば、必然的に存在する未婚者の割合で少子化が進むことになってしまう。「結婚したい人、できる人がすればいい」と言う思想は、それ自体は自由意思の尊重であり、素晴らしい価値観かもしれないが、少子化を招いてしまうという致命的な欠陥がある思想だと言うことだ。

 

一方で、夫婦の完結出生字数も緩やかに下落を続け、現在は1.8人程度であるが予定の子供の数は2.1程度である。育児環境や収入面など現段階で理想的な環境が整えられても1.6程度にしか改善できないのである。つまり、今後多額の税金を投入して環境の満足度を上げたとしても、自由意志に頼る限り、出生率は1.6程度が限界値なのである。

 

少子化の要因、非婚化、晩婚化解消に求められる「所得向上」は資本主義である以上「絶望的に」困難。実現不可能な事を議論する無駄

 

出生率を改善するための必要条件は婚姻率の上昇である。婚姻率は所得と相関関係があるため、子作り世代の、特に低所得層の所得向上が求められる。しかし、資本主義である以上、ある程度の格差は必然的なもので、所得向上は現実的には非常に難しい。資本主義である以上、平均年収が420万円だとしても、平均200万円の階層は必然的に存在するのだ。それを否とするなら、社会主義に制度変更をしなければならない。社会主義国北朝鮮は2を超える出生率を誇るが、現実的に少子化対策の為に格差を否定して政治体制を変えることはあり得ないだろう。政治体制や社会構造によって必然的に存在する格差を無視して「子作り世代の所得向上が求められる」と決議したところで、現実的に所得が向上することは到底ありえない。「所得が低くても子供は作る慣習」に戻すことが肝心だ。そのためには、先述の通り結婚→子作りを動機づけるような制度が求められる。

◆動物の少子化対策は簡単である。人間への対策が難しい理由は「感情」。

 

繁殖が難しい動物を除けば、例えば、ラットを増やそうと思えば、生物学的に合理的な一定の条件、環境を作れば、いくらでも鼠算的に増やす事が可能だ。これはラットの感情を気にする必要がないためである。人間も人口を増やすための作業は明快で、一人の健康な女性からは5〜10人の子供を作ることが可能だ。しかし、人間の場合は子供を増やそうとすれば、親の時間や、金銭負担や手間が重くのしかかり、自由も大きく制限され親にとっては多大な負担となる。子供を作らなければそれらの負担がなく、子を持てる満足感や充足感を度外視すれば、コストや手間や時間的自由の面でははるかに独身の方が恵まれている。

 

効果的な少子化対策とは、言い換えればどのようにそうした独身の「経済的優位性と出産育児の手間を追わず、自由でいたいという感情」を我慢もらい、結婚→子作りに誘導するかにかかっている。しかしこうした対策にはもちろん経済負担や自由の制限があり、反発の感情は強い。感情をどのように説得し取り除けるかがが実効性のある少子化対策の導入の鍵になる。負担感を殊更、感じるか、負担を当然の事として受け入れられるような仕組みや制度を作れるかにかかっている。

 

◆モラルや個人の自由は精神を安定させるが、その先には容赦無く進行する少子化社会が待ち受けている。正しいとされる倫理観や価値観が少子化を進行させる現実

 

「結婚や出産は個人の選択の自由である」この理想的な価値観が安定的で持続的な社会をもたらしてくれるなら何も問題ないだろう。しかし、現実はそうではなく、イデオロギーや価値観や倫理観には関係なく、社会の持続性は世代ごとの子作りの連続でのみ維持される。「産めよ増やせよ」の思想が間違っていようが、現代人はそうした思想の結果生まれてきて、存在できている事実は変えようがない。いかに正しく同義的で理想的な価値観があっても、子供を作らなければ、その民族はやがて滅びるしかなくなる。

 

結婚や子作りをしなくてもいい考えが増えれば、子供が減って少子化を招いてしまう。子作りの選択の自由は倫理的に理想的で正しい価値観であり、個人としては最良の選択であっても、社会的には少子化社会を招いてしまうという致命的な欠陥がある。個人が負担を負いながら、子供が増えて社会の持続性がある方がいいか、少子化による縮小均衡社会でやがて滅びる暗い世の中でも、現代の個人の自由を尊重するのがいいかーー。今一度考えるべきではないか。

 

◆現在の倫理観、価値観と「対立」する少子化対策。そんな対策は「けしからん」の感情が日本人を滅ぼすーー。「対策」はイデオロギーではなく、問題解決の手段。

 

少子化対策、つまり子作り世代が置かれた境遇(産みにくい社会、生まなくてもいい生き方)に反して子供を増してもらう対策というのは、子供を作る夫婦やカップルに対し、金銭的負担、物理的負担、時間的犠牲を強いることで、極めてプライバシーに踏み込む問題でもあるため、国や自治体が政策として非常に踏み込みにくいという問題がある。かつて、中学校の校長が「2人以上、産んだ方がいい」という趣旨の発言をしただけで、世論から集中砲火を浴びたほどだ。発言自体が不用意だった事はさておき、非難する人は政治家に「自由や権利を侵害された」という被害者感情にしか関心をもたず、背景にある少子化問題の深刻度に対する理解が感じられない。

 

少子化対策の手段は問題解決の方法であって、その評価はあくまでイデオロギーに沿って「けしからん」かどうかはなく、目標(少子化解消)に対して「効果があるかないかで評価されるべき」である。仮にイデオロギー的な批判をする場合は、同時に他の効果的な対案を示すべきだろう。そうでなければ、目的(少子化解消)を放棄するのと同義だ。

 

「子作りを要求するのではなく、環境を作るのが政治家の仕事」という批判が強いが、その理想とするような環境がある人は果たして十分に子供を作ってきた事実はあったのかは先述の通りだ。

 

少子化対策が目指すものは、一つにカップルや婚姻が増える事であり、さらに子作りに繋げてもらう事だ。しかし、子供を作って育てるという行為はお金と手間と時間がかかり、負担になる。しかも彼らにとってプライベートな個々の問題であるため、政府の国民への子作りの要求や期待は有権者である国民の抵抗感がものすごく強い。国や社会の少子化対策を目的に、子供を作るカップルなどまずいないだろう。

少子化が深刻化している現在でも政治家が「子供を産みましょう」と国民に訴えただけでも反発は必至で、「子供手当を」と言っただけで仮に効果があったとしても、「バラマキだ」(結果的にその分の税収は別の何かにバラまかれることになるだけなのだが・・・)などと、少子化対策という目的に対する手段であることを忘れ、対策に対しての不満しか主張しない。その先にある、未来の子供一人当たりの福祉の負担増など、全く考えていないかのようである。政治家や行政の担当者はただただ、「少子化対策は重要だ」と認識を示すだけで、何ら効果的な対策を実行に移さないという状態がもう30年以上続いている。

◆倫理的に正しい主張や個人の権利として保障された行動(未婚や子供を作らない選択)は社会の持続性(出生率低下)に対して「全くの無責任」。

 

本来、「出産の自由」や出産適齢期の女性の社会進出はそれ自体は正しく理想的な価値観だが、その考え方は子供が減り続け少子化社会になり、持続性のない社会に繋がる現象、結果に対しては全くの無責任だ。「産めよ増やせ」はケシカランと言われてもケシカランの先には少子化減少の苦難しかないのである。「政府が出産や結婚と言うプライベートな問題に立ち入るべきではない。環境を整えるのが政府の仕事だ」と主張する人は少子化が改善しなくても責任を取ってはくれないのである。

 

◆倫理的正しさや個人の自由意志と出生率向上の両方を達成できる「魔法の聖杯」は存在するのか。なければどちらを取るべきか?

 

どんな行動にも、必ず結末とそれに伴う影響がある。その行動にどれだけ倫理的に正しい価値や絶対的な正義を人間が意味づけても、その行動に伴う結果が常に良い結果を生むとは限らない。環境が厳しいから結婚できないし、今は働きたいから結婚をしたくない。だから子供もいらないーー。これも現代人が保障された明確な個人の権利であるーー。しかし、これらの行動が「もたらす影響」として未婚率上昇に伴う出生率低下により少子化が進行してしまう。致命的なデメリットが生じてしまうのだ。

 

「現代人が結婚をしない(子供を作らない)自由を主張して、社会が少子化に苦しみ続けながら滅ぶか

、もしくは貧しくても努力して子供を作り、社会の持続性を担保するか、どちらが正しいか?と問われても「比べるものじゃない」「正しい少子化対策をすれば良いだけ」と、その選択から逃げたとしても、少子化の現実は容赦無く進行していくのである。

 

◆親や先祖(過去の人々)が子作りを続けて来たから今の人間が存在する。最低限の子作りはその種族が持続する上での「絶対必要条件」。本来、自分が存在している以上、避けられないはずの出産子育ての負担

 

出生率を現在の1.41から人口維持に必要な2.08以上にするには、単純計算で1.5倍の労力が必要になる。特に、出産適齢期の女性(もちろん男性も)は、子供たちがある程度の年齢まで育つ10年間程度は夢やキャリア、趣味をある程度、犠牲にしないと、社会全体の持続性が成り立たない現実がある。もちろん仕事と両立できていればいいが、現実的にできていない以上、少なくとも両立できる目処がつくまでは、子作りを優先すべきではないだろうか。

 

逆に言えば、親や先祖がやりたい事を諦めて出産子育てに費やしてくれたおかげで今の我々が存在している。「昔はしたい事もなかっただろ」と言うのは事実かもしれないが、あまりに自分勝手な理屈ではないか。他の生物同様、人間も苦難な状況をくぐりぬけて世代間扶助が前提で成り立っているという生物の摂理は忘れてはならない。人間社会の持続において「子供は絶対に作らなければならない」。これは紛れもない生物的原理である。これを環境が悪いことを理由に自由意志を主張して子供を作る努力や苦難を回避する大人が増えてその状態が続けば、やがて物理的に滅んでしまう。

親の子育て期に、「時には自分の命より優先して子を助ける」。この連続があったったからこそ、人間が今まで続いて来たのである。それを、自分が生まれてきて、大人にまで育てて貰いながら、「絶対子供を作らなければならない、と言うのはおかしい」と言う考えが正しく、昔からそうなら、その社会は続かず、その発言者もこの世に存在できないことになる。

現代人は自分たちがその行為の連続の上で存在しているのに、過去の先祖のそうした考え方を否定できるのだろうか?このような考えが常識化しないと、「他人が作ってくれるからOK」と考える人間が増え、結果的に少子化を招く。従って「絶対子供は作らなければならないもの」と言う認識を誰もが持つことこそ、最も重要な少子化対策と言えるはずである。

   

個人の人権や自由、目標の追及

社会や経済発展

 
   
     
 

出産育児の世代間での繰り返しでもたらされる「持続性」

土台 →

 

 

 

第六章・これまでの少子化対策の総括と抜本的な方針転換の必要性

◆これまで実行に移してきた行政の少子化対策。改革途上ではなく、効果がなかった事を「結論づける」。来年頑張るのではなく「効果がなかった事」に分類すべき。

 

政府の少子化対策と言えば、待機児童の解消や幼保の金銭支援、育休の促進など育児支援がメインで子供を産む動機に働きかける対策はほとんどない。育児支援型の対策は長年拡充させているが、残念ながら出生率は下降しており、効果は現れていない。しかし、量が足りないと言わんばかりに他の対策を試す事すらしていない。

政策に効果が出ていない時の評価は、「量が不十分」か、「方向性が間違っている」かである。しかし、方向性が間違っていると評価し、政策変更すれば政治家の責任論に発展してしまう。その点、量が不十分となれば、そこまでの責任は追求されないという面がある。そもそも人間には変化より現状維持を求める性質や心理がある。現状維持バイアスがはたらき、なかなか変われないのが人間だ。個人も性格を変えるのは困難だが、個人の集合である組織が方針を変えるのはさらに難しいのである。だから、効果が現れてなくても、「不十分だ」という理由ばかり探して次年度も同じ政策でまた失敗(出生率低下)してしまう。逆に言えば政府自ら「改革途上」と言い張るだけで毎年無駄な事業の継続を正当化し続けられるというわけだ。

少子化の進行は「時間」と共に深刻化。「検討」や「議論」で満足して時間を浪費するのではなく、有効な「法律1本の施行」が重要

検討や議論は半年から1年までなら分かるが、日本の少子化対策の場合、約40年弱、これを続けている。効果のある対策を実行に結びつける結論を出していないということだ。失敗していいので意見がまとまらなければ多数決で「結論」を出す。多数決で決める事をまず決める。何が重要なのか、目的、目標は何なのか。対策を阻害する対立概念は何か。

 

長年やれてない事は、結局はやれない事である可能性が高い。低所得者の所得を上げましょうと、なんの予算上の権限も、企業に与える影響力もない担当者が念仏を唱えたところで、ただの自己満足である。やれない事を求めても仕方ない。やれる事、行動できる事で現状を変えられる方法を考えるべきである。そもそも資本主義である以上、低所得者層を無くす事は絶対的に難しい。その点、子作り世代の子作りへの動機向上に繋がる法律1本通す事は低所得者の所得をあげることに比べれば容易なはずである。


少子化対策は利権にならず、強力に推し進める政治家や官僚が不在

もちろん利権にならない事を理由に少子化対策に予算を消化したくないという証拠はない。ただ、これはすぐ終わった定率減税子供手当てなどが代表例だが、事実として、国民に対する直接的な減税や給付は利権になりにくいからなのか、すぐ終了している。法人税減税であれば、企業は政治献金などが期待でき、企業が天下りを受け入れるなど、政治家や官僚に便宜を測ることも可能だ。定率減税はまだ国民全体に影響するので選挙対策に使えたが、子育て世代は人口比で少なく、集票効果も限定的。

 

少子化対策の為に財源を使っても永田町や霞ヶ関では直接的に直ちに「得」をするものがいない。せいぜい、コロナ渦で問題になった持続化給付金の給付事業のように、トンネル会社を儲けさせるくらいだろう。少子化対策が必要と分かっていても「必要だが、財源がない」と言って結局財政投入を渋って実現せず、他の効果不明の"公共"事業に「必要だから財源を割く」と、どうにか理由を付けて血税をつぎ込んでしまう。そして霞ヶ関や永田町の関係者はその関連企業や団体に高給で再就職できてしまうのである。少子化対策に財源を使っても子育て世帯は天下りの受け皿を作ってくれないし、パー券も買ってくれないのだ。。どちらにせよ、情けない話であるが、官僚や政治家がどうすれば少子化対策に積極的に予算を使いたがるか、動いてもらうか、と言う視点も必要だ。

◆出産育児が減る事で「得をする」人たち。

なぜ少子化対策が進まないかを考える事において、上記のテーマは考える必要がある。実は一人暮らし世帯が増えると、短期的にはGDPが上がる、もしくは減り幅を抑えられる。これは単純な理屈で、結婚し、子育てをする事は2〜30代の女性が子育て期の何年かを働かず、所得を得ずに過ごす。仮に3人産むと、最低でも10年近くはかなりの低収入になる。これにより、社会からは労働力と働いていれば得られた賃金による消費が無くなり、当然、税収も落ちる。企業は雇った女性が結婚すると、当然、新たな人を雇わねばならず、採用コストもかかる。

 

もちろん長期的には少子化による購買力と労働生産性が落ちるが、「今、現在」は出産適齢期の女性が社会進出した方が、購買力と労働生産力が増大するので、結婚出産より独身女性が多い方が現在の政府や企業にとってはメリットとなるのだ。また、結婚すれば生活用品や光熱費も夫妻でシェアし、自炊も増えるので、経済にはデメリットになるのである。政府や企業は、出産適齢期の女性の出産育児を制限して、将来の自国民を増やして国を維持するより、将来の不足分は外国人労働者で補えば良く、出産適齢期の女性も、社会で活動する方が、メリットとなるのである。

 

さらに、子作りから逃れられれば、子作り世帯自身もコストや手間を負うこともない。将来的なことから目を背け、現在の視点だけで見れば、政府も企業も個人もみな得をするのである。もちろん、政府が意図したものではないだろうが、こういう構図があるのも現実だ。

 

表現は不適切かもしれないが、性別年齢階層の中でも、次の世代を残せる貴重な出産適齢期の女性の階層まで、労働市場に促すことは、将来の苗や種子も食らうことであり、企業に例えると来期以降に必要な売上のための必要経費や研究開発費を役員や株主に配分してしまうようなものだ。これでは将来的に続かなることは自明の理である。

 

◆ミクロ・マクロ的な視点で見る少子化対策の損得勘定

 

経済的に言えば、GDPを上昇させるには、民間や政府がお金を一定期間に、より多く使う事である。しかし、個人や企業がそれぞれの利益を最大化するには、入ってきたお金に対し出るお金は出来るだけ少なくして、成果物を得る事にある。車の移動で目的地に早く着くには、速度オーバーし、信号を無視する事である。しかし、それでは事故が起きてしまう。交通事故を無くし、多くの人が最大効率で円滑に移動するには、それぞれ自分だけが早く目的地に着こうとせず、皆が信号と制限速度を守る事でもたらされる。つまり、個人個人の我慢によって、社会全体が得をし、それが結局は個人の得に結びつくのである。出産育児も個人個人では自由と時間と金銭が制限される辛い作業でもある。しかし、それによって、世代間扶助があり、生命が繋がれ、結果的に、自分が存在し得るのである。個人の損は社会の特になり、社会の得は個人の得に繋がるのだ。

 

◆政府の少子化対策の本気度は、財源の有無の説明ではなく財源を「作り出す気」があるかどうかが全て

本来は国家予算や自治体の予算は使徒に応じて全ての財源を柔軟に使い分け、配分を必要に応じて変えていくべきである。国家予算が100兆円あるならその時代の必要とされる政策に「優先順位」を明確につけて、上から順に毎年振り分けていくのが財務省や政治家の役割のはずだ。少子化が問題と分かっていても国家予算に占める少子化関連予算は、児童手当で見ても国庫負担分で1兆2000億円ほどしかない。少子化予算の対GDP比では0.2%程度。これは少子化対策が盛んなフランスやスウェーデンの1/3程度しかない。しかも少子化予算と言っても中身は児童手当など、実際は子供を増やすためというより、生まれた子供に対する育児支援としての補助で、月1〜1.3万円の児童手当のために、出産しようと思うかと言えばかなり怪しいだろう。

 

少なくとも経済事情により、第二子以降の子供を断念する家庭が多いとデータ上も分かっているなら、5〜10兆円など多額の税金を使ってもいいはずだ。にも関わらず、政府の経済対策のメニューは相変わらず、土木事業や、効果不明の事業も多い。中には防災や美観のための電線地中化に多額の予算を割いているが、少子化より、電柱を取り除く方が大事なのだろうか。。日本人が将来的にいなくなること以上に電線を地下に敷設する方が重要な使い道だと言うのか。。少子化問題に限らないが予算の使い道が硬直化している弊害はとてつもなく大きい。もちろん予算の前例主義など、国家という巨大な組織で前例を覆して予算を取り上げるのは並大抵ではないが、危機意識を持って官僚や政治家にはそうした仕事が求められるはずだ。

 

第七章・子作りの「動機付け」こそが真の少子化対策

◆困難な課題克服には痛みが伴うもの。「動機付け」対策の有効性

人口の約2割にあたる低所得者層が、子作りに貢献しなければ、必然的に少子化に拍車がかかり、社会の持続性は維持できなくなる。この低所得者の階層を含む、全階層の結婚、子作りを促すには、効果の現れない育児支援ではなく、「明確な動機付け」により子供を作ろうと思ってもらうための対策が必要になるはずである。

育児支援の対策により、出産世帯の自主性に任せて改善できれば苦労はないが現実はそうはなっていない。今のままであれば、この先も、出生率は改善する事はなく、少子高齢化の苦しみと共に今後生まれるわずかな子供は少子化社会の苦難に直面し続ける運命が待ち構えている。

こうはならないために、例え、禁じ手であってももはや政治が子作りの動機付けをする政策に舵を切る以外、有効な対策はないと考えられる。動機付けとは、後述するように、金銭的インセンティブや、独身税的なペナルティー的な発想だ。子作りの意識が低い層には諦めて 関知しないのではなく、こうした金銭的なアプローチやプレッシャーで、子作りの方向に向かってもらうという発想だ。また、独身税的な考え方は子供を作らない事による社会全体の逸失に対する応分負担の思想でもある。

 

勿論、猛烈な批判に襲われる邪道なやり方ではあるが、目的は出生率を高める事で、モラルを守る事より重要なはずだ。少子化に苦しみながら、滅びるより、手段のモラルを守ることの方が、重要なわけがない。現状の手段のモラルを守った対策で効果が出ないなら、発想や考え方を変えるべきだ。現代の自由主義思想に真っ向から対立するようなやり方はできればやらないに越した事はないが、自主性に任せれば、出生率改善は絶望的な事から仕方なく、という発想だ。


未婚率の要因となっている所得格差は資本主義である以上、経済弱者の存在は現在の経済システムの中で、無くすことはかなり難しい。実際には仮に経済的に恵まれなくても、子作りそのものが不可能な訳ではない。「困難だから子作りを諦める」のではなく、「困難でも子作りに躊躇しないような意識や動機」が少子化対策の上で重要だ。従って、結婚できない、しようとしない経済的に恵まれない状態の階層も、子作りに導くような金銭的補助や、後述する独身税などで、子作りを動機付けることは可能なはずだ。

 

少子化の原因の核心部分と解決への手がかり。子作りへの意識をどのようにして高めるか。結婚や子作りに消極的な人の意欲や動機をいかに高めるかが少子化対策の主軸になる。

 

以上に述べたように、一人当たりのGDPも多産時代から上昇しており、物理的には出産育児は十分可能はずなのに、出生率が低下しているというのは、少子化の究極的な原因は、子供を作るという意欲や動機の減退にあると考えられる。また、人生の選択肢が多様化し、若くなんでもできるときに、「限られたお金と時間を子育ての手間とコストに取られたくない」、「所得が少なければ、結婚ができなくても仕方がない」。現代人がこう考える事が、少子化問題の核心と考えられ、先進国のほとんどが少子化問題に直面している。

 

従って、少子化対策において、一番重要なのは、子作りへの動機を高める事にある。子作りをしたい人のために環境を整えるのも重要だが、それ以上に重要で、少子化対策の本来の王道と言えるのは、「子作りをそれほど考えてない人、消極的な人」をいかに誘導して、意識や動機を高めることにある。

 

昔はみんな結婚し、子供も3人以上作っているーー。こんな同調圧力が良くも悪くも、人口維持に必要な出生率2以上の維持に貢献していたが、今はそうではない。ならば、「子供を作った方が得をする」。例え、邪道でも、制度により、この気持ちを高める事が一番重要だ。少子化対策の重要性が叫ばれつつも、この「動機付け対策」にほとんど触れられていない事が対策が遅れている主因ではないか。おそらく子作りは本来、子育て世帯の自由意志であるべきで動機を政策で誘導してはならないと言う思想が根底にあるのだろう。ただ、ここまで少子化が進行していても道義性を優先すべきなのだろうか。

 

子作りへの意識が高まれば、多少、環境が不利でも子供は増えるはずである。人が何かを成し遂げるには、「環境より意識」が重要だ。意識が高ければ、環境が不利でも工夫してやりくりするはずだが、意識が弱いのに、いくら環境を整えても意味はない。人と会うときも、たとえ時間がなくても会いたい人間であれば、どうにかやりくりして時間を作るはずだが、会いたいという意識が低ければ、逆に時間があっても忙しいと理由をつけて会おうとしないものだ。勉強でも、やる気がない生徒にいくら分かりやすい参考書を買い与えたり、勉強して学ぶ喜びを分らせようとしても、勉強嫌いであればどうしようもない。だからこそ、学歴があればいい就職先があるから、とニンジンがぶら下げられることによって、嫌々でも勉強するのである。

 

少子化対策で最も重要な事は子作りの環境整備だけでは決してなく、子作りへの動機付けと意識の上昇。そして、育児を可能とする金銭面の補助とそれを支える国民の負担だ。

 

◆出産意欲にコミットし、動機を促す対策の必要性。結婚して子供を作った方が、独身でいるより得をする制度設計を。

 

多大な財政負担や子なし世帯や独身への福祉の応分負担の要請、出産努力義務化など、「え、こんな対策受け入れたくない、ふざけるな」というような各方面から批判が出るようなパワーのある対策ではないと、そもそも効果が見込めないはずである。さらに、政治が出来る事としては、「出産努力義務」のような指針や目標を定めるのも有効かもしれない。社会が他人の子供に対しても将来の社会の担い手として、育児協力に手を差し伸べてもらえるような雰囲気作りに繋がるメッセージも積極的に発信すべきだろう。

 

極端に言うと、批判が来ないような負担を求めない少子化対策は、対策にはなり得ないはずである。高いノルマや困難な目標を達成するには、それだけの負担や苦労がないと理屈上は実現困難なはずである。それが出来なければ、結局は少子化解消を諦め、日本人はいずれ移民に置き換わって消えていく運命を辿るしかなくなるのである。困難だけど頑張るか、困難だから諦めるか、の問題である。

 

現在、少子化の要因となっている未婚者の増加は、低所得者層を中心に広がっている。前述のように、かつては結婚して子供を作っていたが、現在はライフスタイルの多様化などによる意識の変化で子作りの優先度が落ちた。結婚子作りを負担感に耐えられなくなっているのだが、彼らにとっては、自分の生活でもやっとなのに、結婚や子供なんて考えられないと、最初から諦めている。それを、制度によって、結婚して子供を作った方が、金銭的に得をするような仕組みにして、意識を変えてもらうということだ。

 

出生率向上に寄与する「未婚率を下げること」はできるのか。現在において未婚率と相関する賃金上昇は期待できるのか

夫婦完結出生率は現在でも2程度あるので、昔のように全員に近い割合が結婚できれば2程度までは回復する見込みはある。婚姻率は男性側の収入に明確に相関関係があり、年収200万円未満の生涯未婚率は4割を超えるが、300万円を超えると2割に改善する。男性の雇用環境を見直すことが重要だと思われがちだが男性の収入の向上は大掛かりな社会制度の変更が必要になる。そもそも資本主義である以上、必然的に低所得者層は人口のかなりの割合で存在することになる。

 

もちろん低所得者層の賃金上昇は望ましいが実現は困難である。なんの法整備もなく、首相が口先のお願いをするだけで、企業が株主の利益に反しての賃金上昇を期待するというのは無理な話である。仮に大幅な賃上げが実現するとしてもそれまでは出生率の向上は実現しない事でもあり、結局は出生率が不安定な景気に左右されてしまうという事になる。理想的な対策でも実現しにくかったり、実行できなければ意味がない。

近年、企業が最高益を更新した際は非正規労働者の導入による影響も大きい。GDPがほぼ横ばいにも関わらず、国内専業のサービス系企業が最高益を更新しているというのは、非正規導入で浮いた人件費を利益に変えて最高益を更新している現実もある。こうした状況を営利企業少子化問題のため、雇用や賃金環境を変えるのは難しい。できない、もしくは政治家がやろうとしたがらない政策を求めても時間の無駄であり、「非正規の待遇を変えるのが先決だ」と言っているだけでは、現実は何も改善しない。

 

従って現在できる対策は、結婚している(または子作り可能な)世帯に3人以上、より多くの子供を作ってもらう事と、未婚者に子作りを動機づけて結婚を促し、子作り世帯の母数に加えることを実現に導くための「制度作り」だ。

 

第八章・少子化対策の数値目標、メリットとデメリット

少子化解消に必要な親が作る子供の「数」。生めるかどうかではなく、「何人産むか」が重要。3人以上産む世帯を何組作れるかが対策の核心部分。

 

少子化対策に抜け落ちているのが数値目標だ。政府は希望出生率1.8を掲げているが、その数字を実現するためにどんな対策をどれほどやれば何人の子供が増えるかの数値目標が欠落している。出産適齢期の女性が何人産み、それが出生率にどれほど影響するかの視点がまるでない。言うまでもなく、皆婚状態で、2.1人以上、現在の婚姻率7割だとすると3人必要になる。現在では未婚率3割で、完結出生児数は1.8人定度であり、絶望的な数字だが、今の婚姻率が7割なら平均して3人以上の子供を作る必要がある。

 

なお、人口を現在と同等の12600万人を維持しようとすれば、平均寿命が仮に90歳まで伸びたとしても、年間140万人の出生数が必要になる。これは1987年頃の水準である。2020年現在で子供を産める女性30代前後の人口を考えると、出生率は2〜2.5くらいは必要になり、この辺りが目標ラインになるだろう。

◆子供が増えさえすれば良いという考えは良くない? →子供は質より量。「量が質を作ってきた」日本。

 

例えば、後述するような、独身税やバラマキ政策などで、無理に少子化対策をすると、望まない子供が増えて、教育の質が低下したり、虐待に繋がるとの指摘はある。もちろんそうした可能性は増えるだろう。しかし、人種の持続性は質では保てない。どんなに優秀な子供だけでも少子化であれば、いずれゼロに向かって物理的に減り続けることには変わりはない。虐待や教育の質の低下はあくまで社会問題であり、別個に行政によって改善可能な課題である。

 

また子供が増えれば競争が生まれ、おのずと質も上がっていく可能性も期待できる。ノーベル賞受賞者も一人当たりの教育コストが今より少なかった団塊世代前後から多く出ていることや、国際競争力が高かった時代の日本を支えてきたのも、人口が多く、一人当たりの教育費も今よりはるかに少なかった。それでいて、今の若い世代より劣っていたという事実はない。最初から優れた子を作ろうとするのではなく、生まれた子に責任を持って育てると言う向き合い方が重要だ。

 

◆対策の中身以上に「不完全の許容」が問題解決の鍵になる。目指すべき事と実現できる事の違い。いかにして社会や世論が不完全を許容するように誘導できるかが解決策

 

商売や問題解決の基本は「回り道」や、「損して得とれ」である。人が喜びや利益を得られるのは損得勘定に合わない苦労があるからである。解決の糸口が長年見えない難題であればあるほど、損や不都合を回避して、成果を得られる事などあり得ない。

例えば日本は労働生産性が悪いとされ、その改善が望まれている。欧米では逆に労働生産性が高いとされているが、これにはカラクリがある。ドイツではひと月ほどの長期休暇があり、残業も少ないのに日本より賃金が高く、日本より生産性が高いと言われている。しかしドイツでは、鉄道は時間通り来ないし、仕事でも休みの担当者がいれば、取引先もその担当者の出勤を待たねば事が進まない。休日となればコンビニすらやっていないという。このように、不便さを許容する文化があって賃金に対する労働時間短縮に成功しているのである。逆に言えば、不便さの対価として、休みが多いと言う事なのだ。つまり、生産性が高いと言われるドイツ人は何もスーパーマンのように優秀なわけではなく、単純に労働時間が少ない代わりにその分の不便さを許容しているだけである。

 

日本の少子化も、モラルや産まない権利を尊重しながら、育児支援を充実させ政府が賃上げを企業に要求すれば、企業が出産適齢世代の賃金を株主の反対を抑えて賃金を引き揚げ、子供を産みたい気持ちが高まり、出生率が向上するのはありえない理想モデルである。モラルや自由、権利をある程度は我慢して出生率を高めるか、環境を理由に子供を作らない自由を主張し、移民の国になるかが現実的な選択肢なのである。

 

少子化対策の戦略目標と実現するための対策

 

現在のように、出産適齢世代の3割が未婚、結婚しても30〜40代前半までに子供を2人では少子化は必然だ。やるべき対策の目標地点は以下の4つ。  

 

一つはまずは、子供を作れる母親の母数を上げるために未婚率を減らす政策(婚外子でも構わないが)。2つ目は多産に繋がる早婚を促す政策。3つ目は多産を促す政策。4つ目は毎年の出生数の約2割にあたる堕胎をできるだけ抑制し、育てられない世帯のために、乳児院や養子縁組制度の拡充など、受け皿を作る政策だ。

 

まずは仕事のキャリアをそこまで望まず、子供を作りたい願望の強い女性にはできるだけ早く結婚、出産に繋がる選択肢を取れるような制度を作る事だ。そうする事で、第3子以降が生まれやすくなる。

もう一つはキャリアを望む女性でも、30代前半までには結婚し、第一子を授かれるようにする。そうすれば、30代で第2子以降も期待できる。また、結婚願望のない女性でも子供は欲しいと言う女性に対しては精子バンクの活用を促す。

 

これらを実現するためには、大まかに3つの手段を提案したい。「子作りを促すための教育」と子供を作る動機を促すための「報酬」と、子供を作らない選択をした場合、それにより増加する一人当たりの社会負担分の「負担」の3つの手段の活用が有効だ。

 

◆属性別世帯の出生数の目標モデル

 

上記の方法で出生率を高めるとして、属性別の目標値はどれくらいを目指すか。単純化するために、子育て可能世帯人口を全20世帯(父母40人)とする。

 

(目標モデルケース1)未婚率は現状3割(6世帯分)だが、この半減を目指して17世帯が結婚し子供を作るとする。17世帯のうち、14世帯が子供2人。ここまでは、現在の完結出生児数と同等だ。残る全体の15%にあたる3世帯を出産に意識が強く、補助すべき世帯とし、平均4人産んでもらう。3人、4人、5人でもいいだろう。こうなれば、40人出産となり、出生率は2.0になる。

 

(目標モデルケース2)未婚率2割として、16世帯が結婚し、10世帯が子供2人。4世帯が子供3人、残り5世帯が子供5人ずつ。これで出生率は2.1人になる。これを制度構築で期待したいところだ。

 

◆「子作り教育、意識」の重要性。「あえて育児の辛さを教える」意義。子供を持つ世帯の幸福感も教える

 

先述のように少子化の原因は子作り適齢世帯の子作りの「意識低下」にあると考えられる。価値観の多様化と、子育ての手間などから、産みたいという動機が昔と比べると薄くなった結果と考えられる。環境が恵まれた高所得層も大抵、子供は2人までだ。

 

以前、「子供は3人以上作りましょう」と発言した国会議員が集中砲火を浴びたが、子作りへの意識の低下で少子化になっているのなら、「子供を産んで」と言うお願いは至極、合理的な要望で、発言のタイミングや方法は適切だったとは言い難いがたくても発言自体は正しいと言える。

 

また、育児は多大な金銭的負担と肉体的、精神的負担が伴い、それらの負担を親や先祖が行っていたから今の子供は存在しているのは紛れもない事実だ。しかし、これから親になることが期待されている子供はやはり、育児であっても、「辛いことは回避してもいい」と考えている傾向が強い。10〜20代に結婚願望を問うアンケートでも近年は概ね30〜40%が「願望がない」と回答しており、その理由に「面倒さ」や「金銭的事情」を挙げている。こういう結果には根底に「辛いことは回避してもいい」という価値観があるからだろう。辛いもの、ストレス、理不尽で不合理なもの、これらは現代人にとっては悪でしかなく回避したい要素だが、現在では子作りの辛さの必然性を教えていない。そのため、若年層は子作りの苦労も回避しても構わないという認識があるため、環境が悪いとすぐ、諦めてしまう。

 

そのため、教育としては、「育児は辛いものだが、子作りや育児はなくてはならないものだ」、という教えが必要だろう。あえて幼少期から子作りや育児の必要性と辛さを教えておいて、人間として生まれてきた以上、次代に繋ぐ観点から、大人になって誰しも訪れる必然的な苦痛として、受け入れられる土壌を作っておくのだ。「子作りや育児は辛いので、大変なら回避してもいいもの」という認識から、「辛いけどやらなければならないもの」という覚悟を植え付けるような教育が肝心だ。もちろん、個人の自由意志を否定するような教育であり、やらないに越したことはない教育だが、ここまで少子化が進んだ状況で現状の対策で全く改善の兆しすらないなら、やむをえないのではないか。

 

また、人間の一生における究極の願望は幸せになることだ。何が幸せかは、もちろん人それぞれだが、その最大公約数は子供を作って孫の誕生を見届けた時ではないか。逆に言うと、それが幸せと感じる遺伝子があるからこそ、大昔から人間が存続しているとも言える。しかし、生活や価値観が多様化した現代はその基本的な事を出産適齢期の若い頃はあまり理解できない。命を次の世代に繋ぐことの大切さを気づき、そこに幸せを感じるのは年を取ってからだ。40代になって駆け込み出産がこの20年で4倍に増加しており、そのことからもその現象は伺える。

 

そういう意味でも10代の若い時期からこうした子作りや子供を持つことの意義や重要性、幸福感を知らしめる教育が重要になる。

 

◆高齢出産の基本的なリスクと若年出産の優位性の教育

 

子作りが遅れた事を後悔するのはデータ上も明らかなのに、人間の存続上、必要絶対不可欠な「子作り」を数ある価値観の一つと捉えて、価値観の押し付けは良くないからと言う理屈で必要な情報や教育をしないと言うのが、現在の日本の家族計画や育児に関する学校教育である。しかも、明白な「高齢出産に対するリスク」ですら殆ど教育されておらず、逆に高齢出産でも問題ないという誤った認識が広がってさえいる。高齢出産自体が可能であることと、リスクの高さはあくまで別問題だ。

 

中学、高校の教育では、「出産適齢期に子供を作らないと言う決断をし、子供がいない人の後悔の割合」、「高齢出産のリスク」、「子供を3人以上苦労して作っても、やっぱり良かった」、「若い時に子供をたくさん作って良かった」、「老後になって子供や孫がたくさんいてやはり良かった」などの、データを示すような教育は最低限すべきだろう。よく、自主的な判断を阻害する恐れがあると指摘されるが、上記のポイントを踏まえた上でどう判断すべきかを促す事が教育ではないか。

第九章・努力義務化の考え方

◆出産育児の「努力義務」化へ。もはや自由意志では期待できない子作りは「納税と同義」。

もちろん、このような上記のような政策や政府のメッセージによるある意味、支配的なやり方は人権侵害だと言う意見もあるだろう。しかし、少子化の方が、現実問題としては、はるかに深刻である。先祖が2人以上出産育児してきた結果として、現在の我々があり、先祖から子孫に繋ぐ流れの中の一部分という捉え方があるなら、子孫に繋ぐ為の子作りは不可欠なはずだ。また、人権とは本来、人間が存在して初めて成立する概念である。いずれ人がいなくなる少子化現象より、人権や個人の自由を重要視するのはナンセンスだ。

 

また、これまで親の気持や子を持つ必要性や偶発性によって生まれてきた子供が、価値観の多様化などにより、子作りの優先順位が下がり子供が減っていけば、新たに人間が創出した法の力を借りる事も合理的とも言えるのではないか。

 

例えば税制度が何のためにあるのか。ほとんどの国民は自発的に寄付をしてくれないため、納税制度があり、これは国や社会の維持のためにも不可欠だ。同様に出生率もこの40年間、2を大きく下回り続けているから政府が発信するのも仕方がないのではないか。もちろん納税も応分負担であるように子作りも固有の経済事情によって後述のように補助金を出したり減税したり、環境整備も必要な事は言うまでもない。

 

日本国憲法では「勤労」「納税」「教育を受けさせる義務」がある。納税や勤労は国のため、という側面があり、働きたくない人に対しては人権侵害とも取れなくもない。出産育児の努力義務化は国の為というより、日本人の存立の為である。政権は変わることがあるが、人がいなくなれば、それでその人種は終わりである。少子化対策とは、国の為ではなく、その人種人自身の為と言える。そう考えると、努力義務化は理にかなっているのではないか。

 

◆個人が負担し、我慢する事が結果的に社会の持続性と個人の権利を担保する。個人も社会も人間の人生のうち、5〜10年は労働ではなく後世を残す為に費やす時間として割り切るべきではないか。

 

人類は近代化するにつれ、成熟し、繁栄してきた。これまで数多くの失敗を経験して、合理的な社会制度を作ってきた。その大元にあるルールは、個人や社会が我慢し、負担する事で社会全体がバランス良く安定するという思想である。その結果、秩序が保たれ、平和と繁栄の持続性がある。交通ルールでも、皆それぞれが一足先を急ぎたいのを我慢する事で、全体が速やかに移動する事が可能になり、最適化されるのである。

 

子作りは確かに、経済的にも時間的にも犠牲になり、手間もかかり、30代前後の貴重な時間のうちの大きな時間を費やすことになる。仮に3人子供がいれば、5〜10年の生活はやりたい事もできず、生活の大半が育児に費やされるかもしれない。しかし逆に子供を作らなければ、その貴重な期間を「フルに自分のために使う事ができる」。現代人の2、3割がこう考えれば、本人はいいが、その後の社会はやがて破綻に向かう事になる。やはり、子作りの適齢期である20代〜30代の間の5〜10年はある程度、子作りに集中し、フルタイムではなく、調整が利くことを優先的できる仕事が理想的だろう。社会は子作り適齢期の人間を労働力としてカウントする前提ではなく、社会も本人たちも、必ず訪れるべき、子育て時期だと思えばいいのではないか。

 

もちろんやむ終えない事情により、出産できない人間もいるため、「努力義務」がちょうどいいのではないか。法的に定めるのが難しければ、首相によるメッセージや指針でも構わない。要は、国が責任を持って発信することが重要だ。

少子化が深刻化する現在において子作りの「努力義務化」が合理的である理由。個人と社会の目標は違う。政府自治体は役割を果たしているのか。

 

個人は生きて行くためには必ず食料を得なければならない。人種が存続する為には物理的に必ず出産育児を繰り返さなければならず、その結果、現代人が存在する。食事も出産も法律的な義務では無いが、食べ物は必ず個人が求めるものであり、法律化の必要性は無いが、50年前まで当然のように行われていた出産育児は、時代の変化で当然視されなくなり、個人にとって必要性が薄れた。しかし、人種が存続する為には繰り返し、世代間で出産育児が必要な行為である事には変わらない。時代の変化でそうなったのなら、現在の知恵である法律で拘束する必要な段階になっているのではないか。

 

そもそも、少子化対策が困難な理由は、少子化解消に必要な子作りと育児が個人の自由や権利を抑制してしまうことに対する反発があるからである。しかし、子作りの回避が1代限りの個人の戦略としては、理にかなった行動でも、人種や社会の持続性を考えれば子孫を残すための子作りは絶対必要条件である。個人の存在は人種の持続性があるから、存在するが、1代限りの個人が子作りをしない結果が最良の選択だとしても、その先に社会の持続性はないのである。個人の子作りをしない自由より、社会の持続性のための子作りをするという行為に優先度があるのは明白だ。

 

したがって、社会の持続性の維持が最も重要な役割である政府や自治体が、反発を遅れて、「子作りのお願い」すらためらい、言うべきことも言わないのは役割をまるで果たしていないことになる。少子化が進行する中で、社会や人種の持続性のために絶対必要な子作りの直接的な要請すらしないのは、これまで先祖が苦労して繋いできて社会を現代人の都合で終わらせることになっても仕方がないと国が示しているようなものだ。

 

◆いくら欧米や日本が自由や権利を主張できても、世界的な少子化で生き残れるのは少子化問題を克服できる政治体制のある中国だけか。

 

個人が自由や権利を主張できるのは生きていてこそである。そして、生きているには、親の出産育児が不可欠であり、言い換えれば自分が親になるという世代間扶助があって成立している権利とも言えるだろう。社会が持続するのは人口動態が安定しているかどうかであり、その意味では個人のモラルや権利の有無や思想は関係しない。あくまで単純に子作りを世代ごとに繰り返せるかどうかある。

その点、個人主義が発達している欧米や日本などの人権大国は不利であり、実際、少子化に苦しんでいる。中国も今や少子化問題に直面しているが、中国は産児制限をしたほど国で圧倒的に国家権力が強い。さすがに14億を超える人口を抱え、多少人口減になっても許容されるだろうが、いざ少子化が問題だと共産党政府が考えれば、独身税以上に強力な2人以上の出産義務化などを実行するかもしれない。

 

善悪はともかく、結局、持続性があるのは国民の反発があっても、子作りを"制度化"できる中国ということになる。わずか40年で年間の出生数が半分程度に落ち込んだ日本。本来は超法規的な対応が求められる事態と認識すべきである。

 

◆子作りの負担を「悪」ではなく、当然視される雰囲気作りと意識変革が重要。負担の「軽減策」から「受け入れ誘導策」への転換を。

 

出産育児の負担は確かに辛い。しかし、100年以上前の日本や出生率の高い途上国では、現在の日本よりはるかに家事負担が大きく、育児環境が厳しかったにも関わらず、その負担が当然視されていたからこそ人口が増えていた。もちろん負担は軽い方がいいが、親が自ら生きていくことに加え、子供の人数分の負担をなくす事は、到底不可能だ。政府や自治体も子作り世帯の負担を取り除こうとするだけではなく、負担があっても子供を作る重要性を国民が認識していることがコンセンサスになるような雰囲気作りも重要だろう。

 

政府や自治体の少子化対策保育所の拡充や育休の促進、教育費の無償化など、負担の軽減策ばかりだった。もちろん、育児負担の軽減策はやるに超したことはないが、子供を育てること自体、大きな負担には変わらない。そもそも自分の人生は全て自分のためだけに使うという認識があるから、生物としての持続性の上で必要不可欠な子作りを、負担であると考えてしまう。誰しもやりたくない辛い受験勉強も、就職に役立つという「目的」があるから、嫌なことでも我慢できて実行ができる。受験勉強は努力すればした分だけ、直接自分に見返りが期待できるからモチベーションが保てるが、子作りはその負担の見返りが自分には返ってこないところが、少子化問題の全てと言って良いだろう。

しかし、生物の持続性は世代間扶助であるため、すでに子作りの見返りは自分が親から生まれ、育てられ、成人したことで、すでに受け取っているのである。こうした道理を周知することで、育児負担を受け入れる土壌を作ることも肝心だ。

 

◆意識改革のための「宣伝」

 

例えば、地方自治体は観光客誘致のため、税金を使い、宣伝に力を入れている。税金で宣伝費用をかけても、観光客が落とすお金でペイできれば投資価値ありと言う理屈だ。少子化対策でも出生率向上のため、宣伝という手法を活用すべきだろう。ドラマやCM、バラエティ、ネットメディアにおいて、PR会社を駆使しつつ、子作りテーマのコンテンツの提供スポンサーになる事はかなり有効だろう。

 

TVがこう言っている。皆がそうしている、などメディアのコンテンツが子作りのキッカケになってもいいだろう。例えば、子作り世代に影響力のあるタレントが、結婚し、SNSに子供を作った幸せが綴られるだけで、子作りへの関心が高まるかもしれない。ステマと批判されようが、手段より、出生率向上と言う結果の方がはるかに重要だ。繰り返すが、出産世帯の自主性に任せれば、子供は減り続けるのみ。効果的な対案もなしに、「バカらしい。ケシからん」と言う方が無責任だろう。

 

第十章・逆説の少子化対策の中身

◆高い効果が見込める「報酬と負担」の金銭的政策

◆(1・報酬)データ上、効果が見込める「金銭補助」。アンケートでも95%の親が子作りに金銭補助が必要と回答。

 

2012年のデータでは、結婚した世帯年収400万円までは子供なしが20%程度だが、400万円を越えると、子供がなし世帯は10%に減る。逆に400万円を超えても、子供を持つ割合が大きく増える事は無く、1000万円を越えると、逆に子供無し世帯が12%以上とやや増えている。これは、平均年収付近までは子供の数と年収の伸びは正比例の関係にあり、それ以上の年収と子供の数の相関関係は希薄になることを意味している。

 

つまり、低所得者層の出産希望世帯に現金を給付するのは合理的となる。明治安田生活福祉研究所の調査でも「新たな子作りに踏み切るには何が必要か」との回答に、国からの育児給付、出産手当が「必要」「どちらかと言えば必要」と回答しており、合計すると95%に上る。つまり、お金があれば産んでもいいと考えているのだ。日本の平均世帯年収は550万円程度(2016年)であるが、格差拡大で500万円未満の世帯は全体の55%程度となっている。つまり、このボリューム層に子供の数に応じて成果主義で現金給付策をすれば、出生数が改善するのは合理的となる。

 

①具体案

 

言葉は悪いが、バラマキ型の動機に繋がる金額の補助が効果を見込めるだろう。「子供一人につき、1000万円を」と、金銭的動機で出産に結び付けるべきだと主張する政治家や識者がいるが、やはり多額の現金で大きく子作りに導く動機は必要だと考える。それには子供の数に応じて、段階的にインセンティブを持たす方が、子供を増やす動機付けにもなる。例えば第三子以降、1000万円など、ある程度高めの給付額だと、子作り世代は積極的になるかもしれない。

 

そうなると、なるべく早く結婚して若いうちに第一子を産んだ方が第三子以降に繋がりやすくなるので、結果的に出産サイクルが早くなり、少子化の改善効果も見込めるだろう。「3人目に1000万円を」と言って批難を浴びた議員もいるが、インパクトのある金額で、少子化解消という目的には効果は見込めるだろう。また、金額であるが、完結出生字数は約2人であるが、そこから3人目を促すにはインパクトで動機付けの必要もあり、一人の子供の生活、教育資金とされる1500万円でもいいかもしれない。財源論は後述するように、人一人が生まれるだけでも税金で十分ペイできる。

 

月額制ならとどうか。例えば3人目を産むと、月5万円なら、あえて作るまでもないのではないか。ただ7万円なら、気持ちが動くかもしれない。期間は高校に上がる16年間。4人目で計月10万円。5人目で計月20万円ならどうか。これを最後の子が16歳になるまで受給できるようにする。教育費がかかるのは大学に入ってからという状況もあるため、小学校に入ってから支給を開始し、大学卒業年の22歳まで続けるという方法もあるかもしれない。

 

なお、こうした対策は金目当てと言う批判はあるが、少子化解消の目的に対して、他に効果の見込める方法が無いなら仕方がない。効果のある対案なしに非難すると言うことは、少子化のもっと悲惨な未来を受け入れるのと同じ意味である。よく、金銭補助は「パチンコに使うからダメだ」などと批判があるが、目的は少子化解消であり、手当をあてにしたパチンコ中毒者を出さないことよりは重要ではない。パチンコに使う親はあくまで例外的であり、例外を挙げて、主目的を否定するのは全くおかしい。仮にパチンコに使う親が出てきたとしても、それで子供が生まれ、育てば社会に出て仕事をし、大半は納税者となり、全く問題はない。一部例外を全体化して苦渋の対策を全否定する行為は生産的ではない。

 

②財源は福祉予算の組換えか、国債発行も。

 

財源は国家予算で言えば、約100兆円超のうちの必要な額だけがその対象であるはずだ。財政政策は本来、前例主義ではなく、優先順位で決められるべきで、日本人の存亡に関わる少子化問題に対する関連予算は国債償還より、重要視すべき最優先事項のはず。国にとって重要な事は経済発展ではなく、国民の存続が大前提であり、それに直結するのが少子化対策関連予算だ。したがって、「少子化対策まで財源が回らない」ではなく、「少子化対策の予算のため、他に財源が付けられなくなる」という思想が重要だ。

よく、親が使う子供手当で子供に借金を残すなというが、その分を公共事業や他の予算に使っても結局は子供が払う事に変わりはない。民主党子供手当自民党はバラマキだとして、取りやめたが、その分の財源が何に変わったのか。政治家は胸に手を当てて考えるべきだろう。

 

とはいえ、そうは理想的な事を言っても仕方がない。まずは、現在、医療福祉関係の予算が33兆円ほど使われている。これには少子化関連予算も含まれるが、この2割程度で6兆円も捻出できる。1割でも3兆円でこれだけでも、児童手当も現状の2.5倍支給できる計算だ。無論、得票率の高い高齢者からは批判の嵐だろうが、これなら、自民党の直接的な利権には触れないので、選挙だけやり過ごせば、やりやすいのかもしれない。

 

もう一つは借金だ。借金はもちろんいずれ返さねばならないが、子供が増えれば、無論、税収増も期待できる。生涯納税額の男女平均は少なく見積もっても国と地方で3000万円は期待できるので、仮に子供1人あたり、前述した1500万円の出産手当を払っても、十分ペイできる。不謹慎ではあるが、投資としてみても、非常に高利回りが期待できるのだ。仮にこの1500万円を第三子以降にすれば、財源も抑えられつつ、家庭にとってもローン返済や教育資金のためなどに、3人目を検討する動機には十分なりうる。無論、借金は倫理観に劣るが、その倫理観も少子化社会による悪影響を考えれば、考える余地はないだろう。他にも例えば、大二子以降から、親からの贈与税の全額控除なども検討してもいいだろう。

 

問題は、効果が高いと見られる対案でも、倫理や感情で批判し、対案を出さず、時間だけ過ぎて、さらに少子化が深刻化する事である。邪道でも、人口が維持できて、なんとかやっていっている社会がいいか、無責任な倫理を振りかざして結局対策を打たず、人口減に苦しみ続けながら、移民にこの国を譲るか、どちらかなのである。

 

◆バラマキ財源は「子育て国債」?

 

建設国債ならぬ、「子育て国債」を作って日銀に当面、買い取ってもらうのもいい。財源を気にされると思うが、実は、人1人の生涯納税額は、4000万円程度なので、バラマキ政策によって増えた分はその増えた人間の納税額で十分ペイが可能だ。上記の例で5人子供を作って月20万円を16年となれば、3840万円必要だが、5人目で月20万円の財政支出でも、実は一人分の生涯税負担分だけで、十分ペイが可能だ。もちろん、コロナ経済対策のように日銀の国債買取でも問題ない。

 

また、任意のインフレ率を超えない範囲で金融緩和(国債買取)できるというMMT理論(現代通貨理論)も、多額の財源を必要とする少子化対策にも有効のはずだ。MMTに関しては論者も指摘するように実際は毎年、膨大な国債買取残高を積み上げており、批判的な財務省はその発言と行動が矛盾している。コロナ渦の際も、特に米国では無限の金融緩和を打ち出しながら、インフレとは程遠い状況だ。物価は庶民の財布と関係の薄い日銀当座預金の積み上がり続ける残高ではなく、受給の関係のみで決まるという教科書を学び直したいところだ。物価が受給で決まるのは、コロナで所得が下がっていても、需要のあるマスクだけが値上がりする現象でも説明がつく。

 

地方自治体だけでも実行できるバラマキ策。

 

様々な策を述べたが、国は腰が重い。だが、地方自治体レベルでもやれる事はある。それが、第三子以降の多額の金銭補助策だ。すでに地方自治体によっては100万円程度の出産祝金を出すところがあるが、やはり金額の低さは否めず、積極的な子作りの動機には繋がっていない。

 

財源に関しては、借金になるが将来的な住民税収でペイできる額が1000万円だ。これは平均年収400万円の月々の住民税額2万円で40年働いたケースで算出でき、プラス地方消費税分2.2%を加えると1000万円を超える計算だ。実際には0才から平均寿命まで消費活動はあるので、十分お釣りが出るだろう。「地方子育て債」などの名前で0.3%くらいの利子なら支払い可能で、低金利の今なら投資妙味のある商品になるかもしれない。

 

ただ、長野県下條市や岡山県奈義町のように、周辺自治体から元々子作り意欲旺盛な世帯を吸い上げているのでは意味がない。両親のどちらかがその自治体の出生者であったり、最低、5年、10年などの居住歴がある世帯を対象にする方がいいかもしれない。やはり、人口100万人以上のある程度、人口ボリュームがある自治体でやるのが望ましいだろう。

 

◆バラマキ策で効果を上げたロシアやソフトバンクの事例

 

問題はどれほど支給するか「金額」の問題である。子作りのモチベーションとするには、現在の児童手当のように月1〜1.5万円程度では、まるで効果がない。この金銭補助で最も効果があった例はロシアだ。ロシアの少子化対策は2人目の子供を産むと、年収2年分が住宅資金などとして、支給されるというもの。日本に例えれば、子供2人目を産むと、800万円といったところだろうか。この政策により、ロシアでは06年に1.30だった出生率が導入後の翌年(07年)から1.41と目に見えて上がりだし2015年には1.75にまで急回復している。ロシアでは使途が住宅など、定められているが、大きな補助が出産を後押しするのが明白になった事例である。

 

また、企業では日本のソフトバンクは弟3子が100万円、第4子が300万円、第5子で500万円の出産奨励金が出る制度があり、創設以来、第3子以降の受給者が増え続けているという。

日本では、人口の集中する都市部の狭小な住宅事情から、第二子以降を断念する事が多いが、まとまったお金が入れば、住宅資金への充当が可能になり、第二子、第三子目を産む大きな理由にもなるはずだ。さらにこれにより、住宅市場を中心に莫大な経済効果も見込める。

 

つまり、月1万円の低額な児童手当でなく、第二子以降の1000万円単位の多額の給付が効果的なのである。

 

◆現金バラマキの抵抗感を抑えるなら、控除拡大や税金の調整などでの対応

 

このような現ナマ補助は抵抗が大きすぎると言うなら、減税や免税、公的負担の減免と言う方法もある。例えば、3人目を産んだ時点で、住民税の減免、4人目で所得税減免、5人目で社会保険減免、6人目で年金納付減免とすれば、手当より、現金補助のバラマキによる国民感情の反発を抑えられるかもしれない。また、年金代わりに60才以降は各種納付金を免除にすることもできる。

 

これらの公的納付金の減免措置を生涯続ければ、早めに子供を作った方が、免除総額もそれだけ増えるので、早めの出産サイクルを期待できるかもしれない。こちらの免除案の方が、現実的かもしれないが、やはり動機付けに重要なインパクトには欠けるので、悩ましいところだ。対象者が選べるようにしてもいいかもしれない。

 

また、独身税の導入の際には、子作りをしないと、将来的な社会福祉維持が他人の子供の負担になるとの考えから、「福祉税」として、例えば、40才を過ぎて子供が0人だと、20%を徴収する。1人だと10%を徴収する。これでも実際に子育て世帯の育児出費と比べれば大幅に安い出費で、もちろん育児の手間もかからない。

 

◆金銭対価による、子作りのモラルについて

 

子供を作りたいと言うモチベーションをあげる為に、金銭で釣るというのは邪道であり、倫理やモラルにも大きく反し、子供の多い家族は差別や嘲笑の対象になる可能性がある。しかし、やがて消滅に繋がる出生率2.0未満の人口減少の過程の社会よりはましである。繰り返すが、自主性に任せるとゼロに向かって減り続けることは確実なのである。

 

金目当てに子供を作った家族の差別が可愛そうだから、少子化で国が無くなる方が良いのだろうか。こうした社会問題は、政府や自治体の対応次第で改善は可能なはずだし、金銭補助で人口が増えるメリットを享受しつつ、社会問題に対応していけばいいのである。副作用(社会問題)のある薬(金銭補助)を使って病(少子化)を直すか、副作用のない薬があると30年以上、いつまでも信じ込んで薬を使わず、病気(少子化)を悪化させ続けるかと言う問題なのである。

 

◆2030年頃には毎年150万人ずつ減少。少子化対策としてのバラマキは悪なのか

 

婚姻率、出生率がある程度、収入と相関関係にあり、低所得者層が結婚、出産に結びつかないなら、やはり出産、子育て補助などの、悪く言えばバラマキ型給付が出生率向上を目的とした場合は合理的であると言える。バラマキはけしからんと言うが、バラマキをせず、子供が減る方がさらに深刻な事態を引き起こす。子作りに対し、インセンティブを国が設ける事は邪道で、倫理的な問題はある。しかし、効果が見込めそうな対策をせず、少子化を放置する方が、はるかに問題が大きい。出生率が2を切ると言うことは、滅亡へのカウントダウンなのだから。

 

なぜか日本人は、国民の特定の対象が補助や給付を受ける事を極度に嫌がる。民主党子供手当や高速無料はその最たる例だろう。他人が少しでも得をするのが許せない感情があるのだ。しかし、一方で目に見えにくい予算の使い方にはほとんど関心を示さない。内部留保が豊富にあるはずの、実質、大企業を対象にした法人税の減税はほとんど批判なしに受け入れられるし、道路の新規建設や、効果不明な税金を使った事業も、同じく国庫の財源を使い将来の子供に負担になるのは変わらないのに、ほぼ無批判で容認されていると言っていいだろう。

 

2030年になると、3年間で毎年250万人が生まれていた団塊世代が平均寿に差し掛かる。しかし、今の出生数も87万人足らず。あと10年足らずでr毎年150万人ずつ減る時代が到来する。その時になっても、バラマキはけしからん。出産適齢期の女性の社会進出を阻害するのは悪だと言えるのか。

 

2)負担「実質的な独身税」→実は応分負担。現状こそが=「子あり税」

◆ほとんど社会負担なしに「他人が育てた子供のお世話になれる」独身者(子なし既婚者含む)

 

確かに保育園や児童手当にかかる税金を恩恵もないのに、独身者(子なし既婚者含む)が支えているのは独身税に他ならない。独身税なら実質的にすでに導入されている、と言う指摘がある。では、実際にどれだけ独身者が他人の子の為に払っているかと言うと・・・。保育園は国と地方で年間約5兆円の税金が使われており、児童手当も国と地方で2.2兆円だ。義務教育は社会負担の考えがあるとして、含めず、この約7.2兆円が子供に対して使われる予算で、独身者(子ナシ)に恩恵のない税金の還元分となる。

 

しかし、もちろんこの税金は既婚者も支えており、独身者(子なし)が3割として、独身者のみが、他人の子の為に支えているお金はたった、年間2兆円分しかない。独身1人あたりでは年7万円強(月6000円弱)といったところだ。現実には独身者はこのお金を払い続けるだけで、子育ての金銭と手間と時間の負担を負わずにすみ、老後は他人の子供の恩恵を受け、他人の産んだ子の社会に支えてもらえるのである。これは子なしにはいかにも、美味しすぎる。これだけの負担で済んで一生やり過ごせるなら、経済的観点だけでも、子供を産まない選択肢には絶大な優位性がある。逆の視点では現状こそ、「子あり税」のようなものだろう。

 

◆実質的な独身税の導入で早婚を促し、出生率向上に結びつけるべき。効果が見られたブルガリアの事例

 

独身者の経済的メリットを抑制し、同時に結婚→出産に繋げる独身税には人権やモラルの面では大きな問題がはらむ。しかし、そのように痛みを伴う分、効果も見込める。目的はあくまで出生率の向上である。

 

では独身税はいくらが妥当なのか。一般的に子供を育てると金銭負担だけで、1人最低でも1500万円以上かかるとされる。大学進学の場合は2000万円だ。独身(子なし)はこれらのお金を負担せず、将来の福祉を他人が作った子供から享受できる。

 

人口維持には親2人から2人以上の出産が必要なので、独身1人につき、1500万円分の負担が合理的と考えられる。例えば35才時点で子供がいなければ月5万円(年60万円)の負担でこの税金を60才までの25年間(1500万円分)負担することとし、もし35才以降に子供が誕生すれば、夫婦で1人につき2.5万円減額の減額、2人目が生まれた時点でゼロになる。それ以上産んだら、今度は3人目以降、1000〜1500万円の手当が出るとなれば、独身税が発生する35才までに子供が2人作られ、さらにそれ以降も3子目への動機となる。ただ、独身税も負担感が薄ければ意味がない。5万円の定額ではなく、平均年収に対する月1%の割合で徴収すればいいかもしれない。独身税の財源を子育て世帯へ分配できれば、貴重な少子化対策財源にもなる。

 

判然としない情報だが、ブルガリアでも1968〜1989年まで独身者から5〜10%の税を取る制度があったという。この間の出生率は2.18→1.86であった。数字的には下降しており、一見、効果がなかったとも見られるが、制度廃止後翌年から出生率は急降下し、1997年には1.09にまで下がっている。実は効果があったとも言えるのだ。

 

独身税が今まで結婚したくてもできなかった層にも結婚チャンスを広げるワケ。早婚→出産増も期待できる独身税

 

独身税は「結婚→子作り」をしない人間に対する金銭的ペナルティーである。独身税が課されたら余計貧乏になり、さらに結婚できなくなる、というのは「誤解」で、負担増のペナルティーを避けるために、早く結婚をしようという力学が働く事になる。何も20才から独身税を徴収しなくても35才や40才からでもいいだろう。その間に子供を作れば独身税を負担せずに済む。

 

独身税が導入されれば、今まで相手の年収や容姿を気にして結婚を躊躇していた層が結婚を焦るようになり、その結果、相手に対する理想も下がり、結婚の早さを争う競争になる。そうなると、今まで結婚に苦戦していた層にもお鉢が回ってきて結婚できるチャンスが広がる可能性がある。実際、周囲の結婚へのプレッシャーが強く結婚が当然視されており、皆婚状態に近かった1970年以前はそのような状況で、25を過ぎると、焦って見合いをして結婚をしていた。その子供が今の現役世代だ。さらに早めの結婚に繋がると、第一子出産年齢が早まる事で子供の数も多くなる可能性も期待できる。

 

もちろん、独身税を恐れ、焦って結婚した場合は最初は好みの相手ではないかもしれない。しかし「愛情は後からついてくる」もの。というのも、当初は恋愛を目的としない出会いから発展した職場恋愛や学生結婚、さらには見合い結婚も実は一緒だ。知り合ってわずかな期間で相思相愛になる確率は非常に稀で、いつまでもその低い確率に懸け続け、ただ時間だけ浪費して、気がつけば婚期を逃している現実を省みるべきだろう。

独身税の現実的な導入方法→若い頃からではなく、猶予期間をもうけ、35歳や40歳からの導入。全世帯を増税し、子供を作った世帯だけ減税と給付

 

政府の政策として「独身税」と言う名前で、独身者に直接増税する方法で導入することは世論の反発が強く、到底できないだろう。まずは、少子高齢化でもたらされる生産労働人口の減少による税収減に対応するため、増税する。ここまでは、仕方がないことで、理解されるだろう。そして、子供を作った世帯に多額の手当や減税や控除拡大、公的負担の減免などで対応していくのが現実的な導入方法だろう。この増税と手当をそれぞれ別の政策として打ち出せば、独身税と言う、納税者に取ってはネガティブな印象を多少薄めることができる。

 

ただ、これを逆に危機的な少子化を改善するための手段として、はっきり独身税であることを打ち出して、導入するのも手かもしれない。そうなれば、少子化が改善するまで、制度の重要性が理解され、政権が変わる度に、コロコロ制度が変わることはないかもしれない。

 

もっとも、前述したように、こうした実質的な独身税は、現在でも扶養控除や児童手当、保育の公的負担や教育費は実質的に独身税と捉えることもできる。ただ、現在の”独身税”では結婚や子作りが動機づけられるほどの負担感がないと考えられ、子供を作らない方に優位性があるのは、子供を育てた場合の教育費や生活費と労力を考えれば、損得勘定でどちらに分があるかは明白だろう。これを、子供がいない場合は明確に損だと感じられるほど差を作ることが重要だ。

 

また、独身税の導入時期も、若い頃ではその負担で婚期を逃す可能性がある。35歳か40歳くらいからが妥当だろう。それまでに、「l結婚せねば」という焦りを持ってもらうことが目的であり、重要だ。

 

少子化対策における結婚方法は見合いが合理的。理想の相手は見つけようとするのではなく、「築くもの」。出生率が2以上のインドもいまだにお見合い制度が残る。

 

恋愛結婚で相手が見つかればもちろんそれに越したことはないだろう。しかし、恋愛結婚は一時の情熱と衝動で結婚に到るせいなのか、離婚率が見合いに比べて高いとされる。見合い結婚の離婚率は10%程度で恋愛結婚は30%程度という。また、そもそも恋愛はまず恋愛対象となる人間でなければならず、見栄えや性格、収入が悪いと結婚の対象外となり、必然的に結婚できない層が出てくる。

 

そもそも恋愛自体が1970年以前は珍しく、その為、周囲が見合いなので結婚を促すしか手段がなかった。逆に言えば、それまで結婚においては共産主義に等しく、ほとんどの国民が結婚に有り付けていたが、1980年の恋愛結婚が主流になって以降は結婚相手を見つけるのは競争になり、少子化問題におけるデメリットとして「敗者が出現」することでその分、未婚率上昇により出生率が下がったと言える。

例えば、いまだに2以上の高い出生率を誇るインドは同カーストでの見合い制度が一般的だ。昔の日本にせよ、恋愛結婚は社会的にはうまくいかないと分かっていたからこそ、見合い結婚の制度が一般化していたとも考えられる。もちろん、今でも結婚相談所など、見合いに似た方法はあるが、十分、活用されているとは言い難い。国や自治体など行政がより直接的に結婚相手の斡旋事業をやってもいいだろう。

 

どういう相手と結婚したいかではなく、どういう相手なら結婚できるのか。悩みどころは「どういう相手と結婚できるか」ではなく、結婚した相手と「どうやって幸せを得るか」だろう。理想の相手と結婚できるのはほんの一握りだ。このような情報の周知も未婚率の低下に役立つはずだ。

 

少子化対策に対する反論は実効性に対する反証ではなくただのケシカランの感情。目的は手段を正当化するのか。

 

例えば、独身税やバラマキ、努力義務規定などの手段は国民の反発が大きい。しかし、批判者は効果の有無に対する正当な議論ではなく、対策の方法が「ケシカラン」という感情からきている。しかし、その感情は少子化解消という目的は全く考慮されていない。少子化解消という重要な問題を解決するための手段であることへの理解や責任がないのである。

 

感情で問題は解決しない。問題を解決するために優先すべきは、感情的な反発なのか、もしくはデメリットがあってもその対策なのか。実現困難な目標を達成するのに、デメリットのない対策があればそもそも問題になっていないはずである。問題があるということは対策にはデメリットが伴うということの裏返しで、現状は反対者のために対策が取れないということである。

 

目的が手段を正当化するかどうかは、手段におけるデメリットが目的達成のメリットを下回る場合だろう。自動車という移動手段は確かに交通事故を引き起こすが、素早い目的地への移動というメリットを考えれば現状の交通事故の頻度は許容範囲とされているから採用されている。バラマキや独身税などは批判が大きい手段だが、少子化が解消されれば社会の持続性が担保される。そのメリットは手段に対するデメリットより大きいのは言うまでもないだろう。

 

◆動機にコミットした少子化対策は「早く」効果が出やすい

 

代表的なのは先述したロシアの例だ。ロシアは06年の導入時1.30だったのが制度実施後の翌年には早くも1.42となり、2015年には1.75にまで回復した。これはインセンティブにより、子作りが動機付けられた証明になり、金額を挙げた場合のさらなる上昇も示唆している。約20年以上1.42程度で停滞する日本とは大違いである。

 

動機に働きかける政策効果は学術的にも指摘されている。心理学では動機には内的動機と外的動機がある。少子化対策関連でいうと、前者は子供を持ちたい、欲しいと言う内面的な感情に基いた動機であり、これはクリエイティブな分野で優位性があると言われ、子育てや教育には有利と言える。一方で外的動機とは、報酬や賞罰などを利用した外部からの条件的な動機付けで、これは「子作り」のように、明快にやる事が決まっている作業にとって有利に働くとされており、その効率は賞罰の程度(金)に依存すると言うものだ。もちろん、子供を欲しいと言う内的動機のみで少子化問題が解決できればいいが、そうはなっていない現実を受け止め、外的動機に頼った対策が重要である。

 

育児支援中心の現状の対策と、バラマキや独身税的な対策の優位性は?

 

確かな事は、育児支援中心の対策は30年以上、行われ、出生率向上と言う効果が「全く現れていない」ないと言う事実。そしてバラマキや独身税的な対策はまだ行われおらず、効果が未知の対策と言う事である。効果が「全く出ていない対策」と、効果が「未知な対策」、妥当な判断力があるなら、どちらが期待できるかは明らかだろう。

◆「公共事業として」も極めて効率の高い少子化対策事業出生率が向上すれば、不動産価格が上がり、国内への投資も増え内需中心に経済効果は甚大。

 

不謹慎な見方だが、バラマキ型の少子化対策は絶大な経済効果が見込める。子育て世帯は恒常的に家計への資金需要が逼迫している為、消費性向がそもそも高い。衣食、住宅、教育、レジャー等、いくらあっても足りないほどだ。特に、経済的事情で、子作りを諦める世帯は、子作りで得られる補助は理屈上、貯蓄に回す余裕がなく、消費拡大が期待できる。3人目で月10万円の補助であれば、年120万円。仮に子供3人の世帯が300万としても、財源はたった、3兆6000万円だ。消費税1.5%分となるが、この金額が消費に回れば、経済効果は大きく、出生率改善の一石二鳥になる。東京都は日本橋の景観のため、首都高の地下化や電線地中化に数千億円も費やすつもりらしいが、その事業の結果、その事業費の多くが、大手ゼネコンの貯金に消えるだろう。しかし、そのお金を出生補助金に使えば、新しい命が生まれ、実需も回復する可能性があるのである。

 

また、出生率の回復の兆しが見えれば、将来有望という事で、その瞬間から国内への投資が活発化することになる。まずは将来を見越して、不動産価格も上がるかもしれない。育児産業や教育産業、外食、レジャー、車など、回復する出生数の成人を待つ前から、大きな経済効果が期待できるのである。

 

ただ、少子化対策における手当てはGDPの参入にはならない。仮に経済対策の公共事業として電柱を作ればGDPに算入されるが、子供のための補助金はG D Pには算入されないのだ。政府はマッチポンプのように不景気を理由に多額の補正予算を組んで、「自ら嵩上げしたG D Pの増加分」を「経済が回復した証だ」と誇れるように、GDPの計算式は政府が決める事であり、少子化対策の手当てをGDPの計算に参入すれば、GDPの数字も上がり、政府の実績にもなる。

 

◆社会問題より、少子化問題の方がはるかに深刻。社会問題は改善可能。少子化は進行するといずれ「ゲームオーバー」(人種滅亡)に。

 

勿論、バラマキ型の対策は、倫理観や国民感情が良くなく、3人以上子供がいる家族はお金目当てと嘲笑の対象となってしまう恐れはある。親の育児放棄も増えるかもしれない。しかし、これらの問題は社会問題として、対策が不可能な課題ではないし、それ以上に右肩下がりで絶えず少子高齢社会の縮小均衡経済の悲惨な社会より、はるかにマシである。バラマキ対策はデメリットも多いが、日本人が将来も存続すると言う結果にはコミットできる可能性は残る。しかし、デメリットを恐れ、綺麗事だけ無責任に並べて、結局何も手を打たないと、さらに悲惨な将来が待ち受けていると言う現実を理解すべきであろう。繰り返すが、デメリットのない対策はもはや、ないのである。

 

◆育児世帯の「地方育児」の推進。その為の法人税、住民税、所得税の減税、控除策。企業による女性従業員の出産抑制圧力を逆巻きに。 

 

東京など、大都市は家賃や保育経費が高く、子育てには厳しい環境だ。独身時代はともかく、子育て世代は家賃が安く、自然も豊な中小都市の方が育てやすい。また、消費性向が高い子育て世帯の増加はその都市にとってもメリットが大きい。

 

子育て世代の移入は各自治体が推進しているが、なかなか効果が出ない。その大きな理由はその地方に仕事が少ないからだ。企業に対しても、子育て世代が地方で働くための事業所設立やテレワークなどを促し、減税や控除などのメリットを得られるようにすれば、積極的になるはずだ。

また税制面の優遇を与えて、企業にとって従業員の出産がメリットになるような仕組みも肝心だ。現在、女性は高校や大学入学後はほぼ、仕事に就く。結婚出産後も仕事を続けるケースは多いが、完結出生児数は2人弱であり、第三子以降はキャリアや経済事情、また会社に気兼ねして断念するケースが多いとされる。実際、堕胎している世帯も10代よりそうした世帯の方が多い。会社への気兼ねは会社側にメリットを作れば解消は可能だ。前述のソフトバンクのように多額の出産奨励金を出すのは一般の中小企業では難しく、やはり出産で従業員が抜ければ会社は代わりを雇わねばならず、採用コストもかかってしまう。この問題を解決するにはやはり行政の補助金が有効だろう。

育児休業中は就労中に支払っていた人件費を一定の経費扱いにするなど、税制優遇をすれば、一人分の経費がプラスされる事になり、メリットになる。企業にとっても、出産で女性従業員が抜ける痛手に対して、金銭的なメリットを作ることが重要だ。これも子供の数が多くなれば、メリットを多めにすればいいだろう。

 

精子バンク活用を躊躇している暇など、ない。倫理観より社会の維持の方が優先事項

 

精子バンクと言えば、父親を知らない子の増加やイジメ、困窮が予想される母子家庭の増加など、深刻な社会問題が予想される。ただ、それは子供が生まれてくる事より、悪い事なのだろうか?教育や指導で改善できる余地のある、学校での誤解やイジメ、各種手当で改善できる余地のある貧困母子家庭が発生するくらいなら、人1人が生まれて来ない方が良いのだろうか?

 

貴重な出産適齢期の女性が、多忙などで結婚適齢期を逸してしまいパートナーに恵まれなかったら子供は諦めるしかないのか、子を持ちたいと願う気持ちを制限する権利が国にあるのかという考え方もある。いずれにせよ、どんな理由にせよ、どんな手段にせよ、子供を持とうとする女性の気持ちをまず尊重しない理由はない。また、子供を持てる43歳の未婚率18%に出産のチャンスを広げるという意味でも、ぜひ推進すべで、精子バンクの一般化に伴う諸問題は個別に対応可能だろう。

 

◆育児の受け皿。個人だけに育児の責任を負わすのではなく社会で育児の責任を持つ体制の必要性。

 

少子化対策においては、もちろん動機を強めるだけでは片手落ちで育児の受け皿も重要だ。昔の出生率が高かった時代は農村や商家など勤住が近く、属するコミュニティーでは相互主義で一体となって子育てをしていたようである。しかし、現代では住み方や家族形態が核家族化で細分化されてしまい、家族とその外では垣根ができてしまい、シェアコミュニティーが存在せず、育児は1オペ、2オペで効率が悪く、高コストになっている。他人の子供でも気にかけるような環境づくりが重要だが、問題を恐れて育児世帯も地域社会の住民も互いに問題を遅れて互いに関わる事には消極的だ。もっと社会を頼ってもいいという雰囲気作りも求められる。

 

◆ワンオペが増えた現代は保育園”全入”と延長保育の拡充の検討も必要。「親が生んでくれさえすれば後は社会が育てる」への妥協も

現代は核家族と地域コミュニティが希薄になり、共働きで育児の負担とストレスを一身に抱えこんでいる世帯がほとんどだろう。しかし、専業主婦も、配偶者が働いていると、日中はワンオペになる。たまには保育園に預けら流ようにしたり、ベビーシッターに公的補助があってもいいだろう。また、育児世帯の悩みのタネである延長保育を格段に利用しやすくすることも重要だ。そうなると、もちろん保育士が足りなくなると言う問題があるが、何も保育士だけでなく、余裕のある保護者がボランティアで保育士の下、保育園で育児を手伝ったりできるようにすればいい。ボランティアでなくても、少し時給

 

とにかく、子供は親が育てると言う「あるべき論」で親が責任感を感じすぎ、ストレスや、負担に感じ、第三子以降、ためらってしまう面があるかもしれない。日本の高度経済成長以前の出生率が高かった時代はまだ地域性や親族との同居も多く、産みさえすれば周囲が面倒を見るなど、そこまで親だけが負担にならず子供が自然と勝手に育っていったと言う面もあるだろう。当時と育児環境が違う条件で、出生率を高めるのなら、現代にあった制度にすることが必要で、育児サービスのさらなる充実と、負い目なく利用しやすい環境づくりが重要だ。

 

◆環境整備としては「中高年家の託児所」化。民泊ならぬ、「民子守(子守)」、老人ホームの託児所化「幼老複合施設」普及促進。

 

環境整備を軽視するつもりはなく、もちろん重要だ。待機児童ゼロで高収入住民が多く住む千代田区出生率1.34しかないが、こうした待機児童対策に取り組む前は0.8と全国屈指の低出生率自治体だった。コンマ5ポイント以上改善したのだから、ある程度の段階までは環境整備が重要なことは明白だ。

 

そこで地域の高齢者に協力してもらう手もある。具体的には、子育て経験のある地域の女性2人以上でいずれかの住宅を解放(もしくは空き家を活用)してもらい、託児所とする案。他人の女性がいれば、夫は助手として居ても構わない。1才以上で1人につき3人までを定員とする。料金は1人一時間500円で、半分は行政の補助があってもいいだろう。資格は、一定の講習を受けた元母親が届出で開設可能とする。

 

もちろん、他人で無資格の女性に預けた場合は、風邪やケガなど万一の心配事はある。しかし、子育て経験者であれば、対処は母親と変わらないはずで、そうしたリスクを承知の上の判断で、育児の担い手として選択肢に入れてもいいのではないか。また育児を独力でやろうとするのも大変で、育児ノイローゼの心配もある。週に数回、数時間程度、他人に預けて羽を伸ばすのも重要だ。もちろん、万一の場合もあるが、万一を考えて、サービスの可能性を否定するのは賢明とは言えない。リスクを理解した上で、対策を講じつつ、利用したい人に選択肢を広げる事が重要だ。

 

やはり万一の心配を恐れ、子育ての負荷を一身に背負い、出産意欲が減退してしまう方が問題である。また、預かり時に子育ての先輩に相談に乗ってもらう機会も有意義だろう。勿論、ここで子を預かる地域の女性とて、生きがいや収入にもなるので、一石三鳥くらいはある。元々、昔の日本や途上国では、金銭の介在なしで、こうして地域で子供を育てると言うシステムがあり、親の育児負担が軽減されていた側面もあったとみられる。知らない人に預けた万が一のリスクと、子供を預けられるメリットを比べて、メリットが多いと感じる親が利用できるサービスがあってもいいだろう。

 

また、すでに、幼老複合施設は増え始めているが、高齢者施設と保育園の複合施設は双方にメリットがある。施設の有効化はもちろん、高齢者にも生きがいを与え、保育士への負担軽減や預かり時間が増えることも期待されている。

問題は、完璧な保育サービスでなければ、提供されないという事態が親を困らせ、行き場を失くさせ、ワンオペ育児に陥り、時としてノイローゼにもなってしまう事だ。

 

第十一章・育児支援も重要

◆「ワンオペ打破」 育児の受け皿となるコミュニティの創造促進策

 

現代の育児は例え専業主婦としても、核家族化でワンオペやツーオペが多く、家電や育児用具が発達しても現代人には負担が大きく感じる。今のプライベート重視の個人主義、不干渉主義は対人関係のストレスはないものの、は育児の面では恐ろしく不利である。国民がこのような生活様式を求めてきた結果による不都合を政府が全てケアするのは難しい。都心部では一人の0才児育児に月18万円も血税が注がれながらも不満が出ている。

 

かつて子沢山だった時代や途上国が現在と違うのは親族間や地域のコミュニティが発達しており、育児の受け皿が充実していた。1980年以前くらいまでは社宅や団地も多く、同じような境遇の家庭が近隣に多かく育児で助け合うことも多かった。地域間、世代間の育児相互扶助があり、現代風に言えば育児シェアのような助け合いで自分や他人の不完全を許容していた文化があった。そのおかげで現代のような育児ノイローゼも少なかったはずだ。

 

出生率が先進国では比較的高い北欧では育児世帯版のシェアハウスがあるようである。「コレクティブハウス」と呼ばれリビングを共有し、手の空いた親が他のシェア世帯の子供の面倒を見ていると言う。日本でもすでに存在し、子供の面倒を見合ったり、生活全般で相互扶助が行われていると言う。かつての長屋のような環境かもしれない。

今の日本の住宅環境ではなかなか北欧のような世帯間のシェアハウスは実現しにくいが、行政と連携し、地方では空き家をうまく活用し、都市部では空きテナントをうまく活用できる余地はあるだろう。また、新婚世帯が主な購買層である新築マンションでも、例えば共用スペースなどの「容積率を緩和」すれば、小規模マンションでもキッズスペースなどを作れるかもしれない。

 

◆自動運転と在宅ワーク普及も育児支援に繋がる

 

少し先の未来になるが、自動車の自動運転が普及すれば、回遊している車に乗って移動ができるようになるとの予測がある。これは、居住空間が広く生活コストが安い地方への人口移動が増えると予想される、また、同時に在宅ワークの普及で、子育てがしやすい環境になるかもしれない。ただ、自動運転や在宅ワークが実際に普及するかは不確実な未来である。不確実な未来に期待して、打つべき対策を怠ると少子化がさらに進行してしまうことになる。

 

◆社会全体で出産育児に関心を持ち、他人の子供への必要な扶助を努力義務化

 

現代の子育てでは大きな苦労の一つの根底に「他人に迷惑をかけてはいけない」と言う考え方がある。それが、育児世帯の両親2人だけで育児を抱え込み、育児を困難にさせていく。かつての子沢山時代の日本や出生率が高いアフリカや中東地域のように地域や街中にも子供が溢れていた事になる。もっと親族だけでなく他人を頼れるような環境が必要である。または手間にならない範囲でボランティア精神で助けるべきである。今は万が一の事を気にして、赤子の手を触れることも躊躇われる雰囲気がある。「ちょっと見ていましょうか」の一言で、どれだけ助かるだろうか。

 

◆育児は「程々に」の精神がなければ続かない。「適当でなければならない」理由

 

例えば、勉強が好きな人間も一定程度いる。起きているほとんどの時間、毎日12時間以上勉強や研究を続けていても苦にならない人間はいる。育児も苦にならない人間はいるだろう。しかし、現実は夜泣きをする乳児や幼児は20時間以上、つきっきりで無給、無休で見なければならない。親が子供に怪我でもさせたら注意不行届で周囲から白い目で見られてしまう。しかも服装も汚ければ虐待を疑われるかもしれない。

 

しかし、昔は怪我など当たり前だったし、服もお下がりが当たり前で汚かった。1947年生まれ前後の団塊世代はまさにそうした時代だったが、その世代が50才の頃の1997年は最も労働者の平均賃金が高かった時代だ。つまり、出生率が高く親も子供の面倒を見切れなかった時代の子供でも大人になれば立派に成長し、日本の成長を支えていたのは紛れもない事実だ。育児不安より、子供が生まれない事の方がよっぽど深刻なのである。

 

◆「とりあえず、やってみる、試してみる」の重要性。完璧主義より完了主義。国民負担が不可欠な政策で民意を汲んでいれば、永久に実現しない。まずは範囲を絞って対策の効果を試してみる。

 

机上の理屈で失敗が許されず、100%の成果を求めて研究を重ねても、結局、うまくいくかどうかはやってみないと分からないもの。技術が進歩していくのは、「試行」錯誤をするからである。机上の論理だけで実行に移し、100%うまくいく事などない。批判が来ない、育児支援の対策だけで、他の手法を試す事さえしないのでは、問題解決は叶わない。まずは小規模自治体などで数年試せば、傾向は分かるしリスクも抑えられる。やってみて、成果が上がらなければ、別の方法を考えればいいだけである。

 

さらに近年はクラウドファウンディングという手法も注目されている。国や自治体の行動はおそらくあまり期待できないので、有志の下にクラウドファウンディングで資金を募り、まずは、10〜20万人規模の市区で実験をする。例えば、10万人の自治体で年間の出生数はおよそ、700人程度。そのうち第三子の平均的な割合はおよそ1割なので、70人。まず、資金の都合により1年限定で計画発表前から住民票のある世帯の第三子の生誕に1000万円の手当として導入する。それで計画の実施前と実施年、計画終了後翌年で、第三子誕生の人数で1000万円の優位性が検証できる。統計学的にはサンプルは少ないが、傾向は掴めるのではないか。もし、第三子以降の多額の子供手当の優位性が認められれば、政府や自治体も乗り気になるかもしれない。

 

◆民間だけでできるクラウドファウンディングでの少子化対策

 

子供が増えると、内需がその分、拡大する。1人あたりの個人消費はG D Pの6割で、年間300万円を下らない。80年以上生きたとして、一人当たり一生で約2億5000万円の消費に貢献することになる。つまり、企業収益で見れば、利益率が1割として、最低2000万円は企業の利益に貢献することになる。これは、企業側から見ても、子作りは投資として十分、魅力的な対象と言える。

 

例えば、第三子以降の誕生に1000万円を支給する基金を作ってはどうか。企業がその資金に拠出すればその分はもちろん経費にすることができればいいし、特例として、基金に拠出する金額の2倍を経費に算入できるようにすれば節税対象としても魅力的になる。また、基金が金額に応じて段階的に認証マークなどを発行すれば、社会貢献に熱心な企業という名声も得られるだろう。また、個人からももちろん資金を募り、金額によって、実際に生まれた子供やその親から成長を知らせるような仕組みがあればタニマチではないが、資金が集まりやすくなるかもしれない。

 

仮に、年間、第三子以降の誕生が10万人として1000万円給付したとしても1兆円程度だ。ちなみに、全日本企業の経常利益の合計が51兆(05年)とのことで、その1兆円分でも未来の子供に投資するという発想があってもいいだろう。

 

第十二章・対策をどうやり切るか

絵空事から実現性を高めるにはまずは政府が「非常事態宣言」を行って危機感を国民と共有すべき。

上記のような道義的問題や負担の多い政策を導入するには大きな反発が予想される。現段階では、完全に机上の空論の粋を出ない絵空事と言えよう。その為、国民に政策導入の理解を求める事は不可欠である。やはり、総理大臣や最低でも少子化担当大臣が改めて「非常事態宣言」を行い、記者会見などして、緊張感のある強いメッセージで危機的な状況にある少子化の状況を国民に知らせて共有するべきだろう。コロナ渦ではないが、非常事態だと分かれば、国民もある程度の対策を受け入れるはずである。

 

◆対策をまとめると

 

「逆説の少子化対策」具体案

 項目

中身

予想実現難易度/効果(5段階)

努力義務化

・国民の三大義務と同様、社会の持続性に必要な子作りの負担を要請。子作りを愛情を注ぐ対象としてだけではなく、社会の構成員と次代に命を繋ぐためとして。

4/2

独身者応分負担(実質的独身税

・35歳や40歳から子供のいない世帯は、子あり世帯の最低限の育児金銭負担分(所得に応じて年収3年分程度)を20年程度の期間、税として支払う

5/5

多産金銭補助(第三子以降)

・第3子以降1人につき、1000~1500万円を支給。

4/4

所得税や住民税の軽減、年金の増額など、子供の数に応じて税負担減策を1000万円超相当額まで拡充(財源は借金でも将来の生まれた子の税収入で回収可能)

・第三子以降で贈与税の減免

自治体単体でも、住民税生涯平均負担分の約800万円でも消費税地方分でプラスになる

企業優遇での間接的後押し

・第三子を作った社員の人件費分を経費扱いに

2/3

・有給の完全消化、有給日数を5割増し集まりやすくなるかもしれない。

クラウドファウンディングで、少子化対策基金への拠出金を経費化できるようにする。

教育

・10代のうちに、子作り、育児の重要性と役割があること、負担を伴うことの必然性を教える。

3/3

・特に、加齢による男性の不妊や女性の妊娠率の正確な数字を中高生から何度も教える。

・高齢独身者の声や後悔を紹介する

近所の高齢者宅の託児所化、幼老複合施設の普及促進

・育児世帯の近所の高齢者に育児を協力してもらう

1/2

PR事業

・結婚や子供の素晴らしさ、子だくさん家庭の幸せさを各種メディアを通じて紹介

1/1

現在の少子化対策

保育所拡充、育休促進、少額の児童手当

ー/効果なし(出生率は低下傾向)

 

 

◆これらの対策が重要だ。以上を少子化「劇薬対策」と名付ける。どれも難易度が高いが、それだけ現状の対策と違って、少子化改善の効果を期待できるはずだ。

 

◆劇薬対策をとった場合と、批難に終始し、結局何もしない場合の今すぐ政治がすべき少子化対策フロチャート

 

 

「劇薬対策」を行う

劇薬対策を非難し、従来の主張を繰り返す

劇薬対策におけるデメリット

社会問題など、あり。企業経営者と政府・自治体は労働力不足と税収減で短期的にデメリット大

実施しないので劇薬対策のデメリットはなし。少子化が進行し、それに伴う社会問題は甚大

出生率改善の可能性

あり

ほぼなし。長年結果が出てない対策に今後も期待してまた時間を浪費?

将来的な日本人存続の可能性

あり

なし

 

◆①劇薬対策には多大な反発が予想され、導入は困難が予想される。しかし非常事態的少子化の解消手段であることの認識が広まれば、理解されるはず。現在が少子高齢化社会の深刻さを広く示す。

 

特に出生率の数字が、単なる危険指数ではなく、「いつまでにゼロになるかの指数」であるかを説く。具体的に人口推計により、何年後に何人減少し、何人の移民が必要で、このままドラスティックな対策を打たないと〇〇年までに移民と人口比で逆転してしまう旨を示す。その上で、移民導入で日本人が先細りする事を選ぶか、ドラスティックな少子化対策をして少子化を回避すべきか、国民に問うべき。

→(移民導入を選択)→200年後には日本人ほぼ終了。

⇩NO

少子化対策をしぶしぶ国民が承諾する。

 

②出産育児の努力義務化、PR・啓蒙活動、環境整備、独身者(子なし世帯)の応分負担、インパクトある手当の支給

 

上記提案の対策でどれだけ効果があるかはわからないが、今のまま現状維持で「育児支援策」を続けるだけでは、少子化で日本人は衰退一途だろう。今後の対策が望まれる。

 

少子化が改善しない。→理由は価値観多様化による結婚出産の意欲低下(お金がかかる子作りを低所得者層はより避けるようになる)→育児支援と自由意志では出生率は回復しない→産みたくても産めない人より、産みたくなくて産まない人が増えている→ではどうする?→動機付けの政策(努力義務化・独身税・3人目から補助金や減税の拡大)と教育(現在は産まない人を他人の子が支えている。女性の出産適齢期は限られている)→出生率回復→経済拡大、持続性に繋がる。そして、まずは、小規模自治体なので、導入しやすい第三子への1000〜1500万円の出産補助金政策を実施し、効果が認められれば国民への政策の理解が広まり、そこで全国に拡大すればいいのである。

 

◆まとめ 本稿で述べたいこと

 

本稿は実効性のある少子化対策の導入方法とアイデア、そしてどういう見方でどう考えるべきかを提示している。有効性のある少子化対策自体は、簡単である。極論すれば、法律化するか、最低限、子作りの成果により、独身税やバラマキなどで、有利不利を作って、動機づける政策を実行すればいいのだ。つまり、結婚して子供を作りたい人への環境支援も大切だが、それ以上に遥かに重要な対策の本流は少子化の要因となっている階層である「結婚や子作りに対して消極的な人」の意識をいかに高めて、動機付けられるかにある。

 

しかし、憲法や人権上の問題、倫理観やモラル、自由の尊重なの考え方の為にそれができない。この点が少子化対策を難しくしている。だからこそ、政府や自治体の現状の対策が、上記の問題に関わらないが効果の現れていない育児支援対策しか実行してこなかった。また、長年、育児支援しかないという一種の「思い込み」も政府や国民にもあるだろう。それをいかに払拭していくかの論理と導入の方法を提案した。

 

影響を顧みず、少子化解消にのみを目的とした本稿であげたような直接的な対策の提案をすると、世論や社会は条件反射で個人の自由や権利、人権至上主義的な感情的な反応で、そうした対策は「絶対悪」として思考停止に陥ってしまう。そうではなく、少子化対策の「解決手段」として、上記のような人権的な価値観の除外項目にできるかどうかが、少子化問題の解決策の全てと言っても過言ではない。人命の危機に繋がるウィルスの蔓延を防ぐ目的、手段として、基本的な人権の一つである移動の自由の制限が理解されるように、有効性のある少子化対策のために、人権を我慢できるかどうかにかかっている。

 

文・本多信治

 

     

コンテ

 

 

1

出生率が1.36、日本人は毎年急減、一方、在留外国人は毎年25万人増、40年後の40才以下の3人に1人は移民系。日本らしさは失われる。移民制度は各国で問題が多発。

2

日本人は減る一方、外国人が増える一方だと、時間の問題で逆転する。アメリカでは16才以下人口で白人は過半数割れ

3

いずれ日本は外国人由来の国に変わる。深刻な少子化は社会の「非常事態」。ただ、年単位の遅い進行のため、危機感が鈍るのが難点。だから対策の本気度が薄い。

4

しかし、現在の少子化対策は毎年失敗で効果はゼロ。AIも合理化も子供を増やすわけではない。子供を増やす目的の少子化対策と、少子高齢化社会の合理化を目指す少子化”社会”対策は別物

5

少子化の原因は何か→少子化の要因である未婚率の上昇は「原因ではなく結果」

6

未婚率の上昇と出生率の低下は、貧困ではなく、結婚と子作りの「意欲低下」によるもの。

7

40年前までは低所得者層も結婚→子作りをしていた。つまり、先進国全てに見られる文明化による多様化がもたらす結婚、子作りの優先順位低下により、不利な低所得者から結婚を諦めた。

8

一方、政府、自治体の少子化対策は育児環境支援型なので、未婚者には関係がなく、効果が現れないのは当然。独身者が結婚しない原因を、育児不満の大きさに求めるから失敗する

9

環境が良かろうが悪かろうが、結婚すれば子供を2人作るのが相場で完結出生児数は2人。

10

全国平均年収の2倍で待機児童がいない東京都千代田区出生率は全国平均以下、やはり環境が良くても現代人は子供を作らない。独身の方が経済的にも時間的自由の点でも断然、優位性が高い。

11

そもそも未婚率3割で母数が圧倒的に不足しているにもかかわらず「子供を欲しい人に作ってもらう環境づくり」での少子化対策自体が破綻状態

12

「子供が欲しい人」への支援だけでなく「そもそも子供を欲しいと思っていない人」をいかに子作りに誘導し、動機付けられるかがカギ

13

教育、努力義務、実質的独身税(負担回避の為、早婚誘導効果)、見合い制度促進(結婚の非競争化)、多産世帯への多額の補助金(子供増加分の税収で回収可能)、など、動機に繋がる対策が有効

14

もちろん、上記の手段は社会問題も予想されるが、社会問題は別個に行政が改善可能で、少子化解消をまずは優先すべき。メリットが上回れば目的は手段を正当化できる。

15

しかし、「動機に働きかける対策」はモラルや人権、個人の自由意志に反するため、反発が強い。

16

タブー視される「動機に働きかける少子化対策」を、人権至上主義的な条件反射で思考停止の全否定をせず、優先順位の議論が必要。

17

コロナ渦でも、人命を守ることを優先に、移動や集会の自由の制限が正当化された。同様に人種を守ためなら、人権が制限されても本来は理解されるはず。

18

モラルや個人の人権、自由意志に関して、現代人の「精神の安定」を優先させるか、社会の衰退をもたらす少子化という「現実問題の解決」を優先するかの問題

19

人権も自由意志の尊重も、自ら生まれて親に育てられて、自分も子供を作って育てるという「世代間扶助」の結果、獲得できるもの。やはりタブーな対策でも行って持続性を確保することが重要だ。

20

環境が悪ければ、結婚子作りをしなくていいと思うのではなく、環境が悪くても、頑張ると言う意識が通念になることが重要。実現できていない労働と育児の両立ではなく、期間限定で育児に集中を。

21

子供が増えて、人口構成が安定して初めて持続性ある社会が運営できる。

22

消費性向が高い子育て世帯の需要を中心に育児、教育、サービス、不動産などを中心に、投資も増えて日本経済も復活。